2012年5月28日月曜日

「ザ・ラストバンカー」

前三井住友銀行頭取、初代日本郵政株式会社社長
西川善文氏の回顧録「ザ・ラストバンカー」
を読む機会がありました。


本の帯には、
「安宅産業処理、平和相互、イトマン事件、
磯田一郎追放、銀行大合併、UFJ争奪戦、郵政改革・・・
現場にいたのは、いつもこの男・西川善文だった。」
と西川氏を紹介しています。


安宅産業処理の場面では、
山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公のモデルになった
伊藤忠商事の瀬島龍三氏との交渉の場面もでてきます。


近いところでは、住専の問題、
そしてバブルが弾けた後の不良債権の処理。
郵政関係では、簡保の宿の払い下げ問題、
丸の内の庁舎の解体・・・


と新聞紙上を賑わした事案がトップの立場で語られています。
「西川の独断」と評され、マスコミでも多く批判されていた
という記憶があります。


回顧録の「おわりに」の一節には、


「毀誉褒貶は、人の世の性であり、これに抗するほど私は若くない。
かといって毀誉褒貶を誇りとするほど私は野心家でもない。
振り返ってみれば、今、そこにある難題と格闘を続け、
その結果としてほめ言葉も悪評も いただいてきたにすぎない。
私自身はむしろ、銀行を取り巻く社会や経済の環境が根底から
変わり続けるなかで、従来の枠に囚われずに思いの丈をためらわずに発し、
実行できた幸せな時間であったと感じている。」


とあり、坂本竜馬の
「世の人は我を何とも言わば言え、我がなすところは我のみぞ知る」
と重なりました。


そして、


「リーダーシップとは、直面する難題から逃げないことである。
リーダーが逃げないから部下も逃げないし、前のめりで戦う。
経営の責任とはそういうものではないだろうか。」

とリーダーの姿勢が記されています。

高度成長期から、バブルの崩壊、そして現在の日本経済が
バンカーという立場から描かれ、興味深く読める本でした。

2012年5月25日金曜日

歴史探訪 毛利元就〜郡山城

三次に行く途中ちょっと寄り道をしました。
安芸高田市吉田町というのは、広島市内から車で約一時間、
県北にある町で、戦国武将毛利元就を生んだ町です。

毛利元就は戦国の知将と知られ、1497年に吉田町に生まれ、
吉田の一豪族から、西の大内氏、山陰の尼子氏を退け、
中国地方最大の戦国大名となりました。

1本の矢なら折れやすいが、3本の矢なら折れにくい。
と長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に
一致団結するように諭したという「三矢の訓」は、
サッカー球団「サンフレッチェ広島」の
名前のもとになっています。

「三本」=日本語の「サン」「矢」=イタリヤ語の「レッチェ」で、
サンフレッチェの練習場もこの吉田の町にあります。

青光井山尼子陣所跡
左の山が青山、右が光井山で、総称して青光井山と呼ぶそうです。
谷になって住宅地があるところが古戦場跡です。
天文9年(1540)9月、風越山から陣を移した尼子晴久が率いた3万の大軍は
翌年正月ごろまでの5ヶ月あまりにわたり、
毛利元就と対峙し、郡山合戦を繰り広げました。 

郡山城の麓には、毛利元就の墓地があります。

2〜3分歩くと、墓所が見えてきました。

 誰一人いない、ひっそりと静まりかえった雰囲気

墓所が見えてきました。

大きな大木が目に入ってきました。

戦国の大大名だけに、さぞかし大きな墓石が・・
と想像していたところ、
イメージからすると少し小さめでした


毛利元就の墓所の向かい側に石碑がありました。
百万一心
毛利元就が郡山城の工事の際に
人柱の替わりに使用した石碑に書かれていた言葉。
百万一心は「一日 一力 一心」と読め、
「国人が皆で力を合わせれば、何事もなし得る」という意味。
吉田全町をあげて当時の石碑を探したようですが、
発見できず、昭和6年(1931年)に拓本を元に、
模刻したもののようです。

 元就の墓所から本丸まで約800M。山を登っていきました。
息を切らせながらやっと本丸の山頂に。
標高389.7M

山頂の本丸で、吉田全景を見渡せるのを楽しみしていましたが、
一面木々の青葉に遮られて、どの方角も見渡す事ができませんでした。


「 本丸まで530M」付近まで下ったところからの吉田の町です。

吉田には、他にも毛利元就関係の史跡が沢山あるようです。
また機会を見つけて、寄り道を楽しみたいと思います。

2012年5月22日火曜日

1つの方向に向かって・・

昨日ある会にお招きいただきました。


旧経営陣(創業社長・創業常務)の
新経営陣(新社長・専務・常務)への慰労会でした。


創業して46年。
一昨年創業社長は会長職に就任され、
第一線を離れ、新社長にバトンタッチ。
そして、昨年、完全に引退されました。

新経営陣の第1期も終了し、見事な業績。

年明けから年度末まで大忙しで、
やっと昨日実施する運びになりました。

創業時からのいろいろな話。

男同士が、現場で汗水をながし、
懸命に仕事と格闘していた様子が
ありありと浮かんできます。

なかには、今だから言える話も・・・

「皆が集まって打ち合わせする時間も無かった、
 しかしながら、1つの方向に向かって、
 それぞれが役割をきちんと認識してた。

という先代社長の言葉は印象的でした。

そして最後に

「難しい環境の中で、よくやってくれている。本当にありがとう」
と先代社長。

「今までの築きあげていただいた、信頼・財産の御陰です」
と新社長。

そして、先代常務の
「みんなに、巡りあえて、感謝している」との挨拶。

長年の重みと、ご本人の心からの言葉で、
聞いていた私は感動し、涙を禁じ得ませんでした。
そして、なかなか昨夜は寝付けませんでした。

素晴らしい食事会にお招きいただき
ありがとうございました。

2012年5月20日日曜日

MORIZOさん

近くにトヨタのディラーがあり、
86という最近発表されたスポーツカーが
色違いで3台展示してあります。


50代の私には、スポーツカーというのは憧れの存在。
いつも通り過ぎながら気にかかる存在です。


ちょっと研究しようと、ホームページを見ていると、
「MORIZOさん」という存在を知りました。
レーシングスーツを着たおじさん。


実は、「MORIZ0さん」とはトヨタ自動車の社長
の豊田章男さんのことでした。
一人の車好きなおじさんの時は「MORIZO」さんと呼ぶようです。


ドライバーモリゾーのBLOGには、
「自動車会社に勤めるモリゾーの挑戦」と紹介されていました。
レシングドライバーに挑戦しているそうです。
ダートの走行、雪道の走行と、相当な腕前です。


豊田社長はある人から
「役員は、ハンドル握るより、
 ゴルフクラブ握る方が多いんじゃないか」
と言われた事があるそうです。


自動車会社の社長が、自動車が好きでたまらない。
当たり前のことと言えば、当たり前なのですが・・・


好きで好きでたまらない人達が集まって作った製品と、
給料をもらうために集まって作った製品。
業績を上げるために作った製品。


そこには、ユーザーに対する配慮が、
商品に対する厳しさが、
そして顧客に対する提案の迫力が
自ずと違ってくるものです。

以前のブログで、「金を作るのではなく、いい車をつくりたい」
との豊田社長のコメントについて、書いたことがあります。
「MORIZO」さんの存在は、
その言葉と重なるもののように感じました。


「MORIZO」さんに、
ビジネスの大切なものを見たのでした。

2012年5月15日火曜日

「不安」と「不満」

先日ある方から、


「不満」は仕方ないけれど、
「不安」は取り除かねば


というお話を伺いました。


微妙なニュアンスの違いで面白いと思いました。


「不安」というのは
先行きがハッキリしない未来が描けない
という状態のことを言いい、


「不満」はどちらかというと
現在の自分の心持ちのことを言うのでは
ないかと解釈しました。


「不満」は現状を良くしたいという
エネルギーのが蓄積された状態で、
「不安」は、どこにそのエネルギー
向けるかがはっきりしていない状態を言うだと思います。


組織を引っぱるリーダーには、


「不満」をエネルギーにし、
「不安」を取り除き、
向かうべき方向をハッキリ示すこと。


心しておかねばならないことです。

2012年5月10日木曜日

長くて余命6ヶ月です

いまのままで、いままでのようにしていて、
何もしなければ、

「長くて余命6ヶ月です」


が診断結果でした。

親族は、CTの結果、レントゲン写真の結果を説明すると
悪性腫瘍があることをきちんと認識し、
切迫した危機感を持つものの・・・

一方、当の本人は、
「今まで、CTの画像も見たこともない」
「レントゲン写真も見た事がない」
「今まで通り薬を飲めば大丈夫」
と危機感薄弱・・・

何度も、本人に繰り返し、説明し、
納得させるしかないんでしょうね・・

これ、医療の話ではなく、経営の話です。

2012年5月5日土曜日

文五郎さん、卑屈な態度はいけませんよ

メルマガ「司馬遼太郎作品に学ぶ経営心得」
第31号をリリースしました。

前回、前々回に引続き
「菜の花の沖」から取り上げました。

「文五郎さん、靭(うつぼ)の商人に対して卑屈な態度はいけませんよ」
「そこまでして買ってもらうことはないのです」

と高田屋嘉兵衛が、兵庫支店長の文五郎さんに

顧客との関係は、
上下関係ではなく、相互関係である。

と教える場面です。

是非ご一読を・・・
http://archive.mag2.com/0001035420/index.html

2012年5月2日水曜日

歴史探訪 石州口の戦い

 今年も、島根県益田市の史跡探訪(石州口の戦い)に行ってきました。
一昨年の5月にも益田を訪問し、石州口の戦で関所を守った「岸静江」
について本ブログで、ご紹介しました。


ペリー来航を機に、長州藩は攘夷化してゆき、勢力を伸ばします。
しかしながら、蛤御門の変、禁門の変により朝敵とされ、
第一次長州征伐を受け幕府に対して順恭し、佐幕化しました。
その後、高杉晋作らが反論を佐幕から倒幕に転換していきます。


これに対して、1866年幕府は、第2次長州征伐を命じ、
4面作戦をとりました。
広島から攻める「芸州口」、瀬戸内海の大島から攻める「大島口」
九州小倉から攻める「小倉口」、そして日本海の石見から攻める「石州口」。
4境戦争とも言われます。


大村益次郎(村田蔵六)率いる長州藩は、1866年(慶応2年)6月16日、
長州藩は浜田藩の西部の益田にて石州口の戦いの火ぶたが切られました。


司馬遼太郎さんの「花神(中)」より


「幕軍は、市街戦をやるつもりらしい。
 それぞれ、市内の町に籠った。福山藩兵は勝達寺と医光寺をトリデとし、
 浜田藩兵は万福寺にこもった。」


とあります。


上の写真が、福山藩が籠った医光寺。
長州藩は、助っ人だった福山藩の医光寺、
勝達寺から攻め落としていきました。

医光寺の総門は、1600年の関ヶ原の戦いの後に
移築されたものと、いわれるだけあって
歴史を感じる、迫力のある、見応えのあるものでした。



そして、自領の浜田藩のトリデの万福寺。
万福寺の庭園は雪舟禅師により作られらたものです。

「万福寺の激戦」が行われました。
浜田藩の総大将は山本半弥、本堂の前での
毅然とした最期の瞬間、長州兵も感動のあまり
射撃を止めたようです。

そして、福山藩が陣地としていた、
勝達寺を探すものの、地図のどこにもありません。
観光協会に電話を入れて確認することにしました。
10分くらい経って連絡がりました。
ボランティアガイドが以前探索したものの
そのお寺の跡は見つからなかったとのことでした。


諦めて、近くを車で走っていると
「幕長戦争 石州口の戦い
    勝達寺墓地 約25M 」
と書いてある標識が目に飛び込んできました。
車を降りて、標識にしがって進んでみるものの、
墓地があるだけ、お寺の跡を確認することはできませんでした。


とはいえ、3つの史跡が確認でき、満足したドライブでした。 
そして江戸時代の、石見人の堅牢な士風を感じ、
少し誇らしい気持ちになりました。