2013年8月26日月曜日

My Home Town 江津  

昨日、今朝の山陰豪雨で実家のある島根県江津市が
全国ニュースで頻繁に報道されました。

被害の状況が映し出され、見覚えのある場所もありました。
山崩れ、浸水の被害、避難された方々も多くいらしゃったようです。

そのニュースを見た、クライアントや知人から
お見舞いのご連絡を頂戴しました。

実家には被害は無かったとのことでした。

ご心配をおかけし、気にかけていただき
心より感謝いたします。

故郷、江津の一日も早い復旧を祈っております。

このたび「豪雨の江津」と残念な形で
全国に名前が広がりましたが、
「江津」には素晴らしいものがあります。

何年か前にこのブログでもご紹介した「花火大会」です。

「日本の3大花火大会」として
秋田の大曲、新潟の長岡、茨木の土浦が挙げられるようです。

土浦は未だですが、大曲、長岡に行って思ったことは、
江津の花火大会も、「3大花火大会」に負けるとも劣らぬ
花火大会になる可能性十分にありということです。

     土浦   大曲   長岡   江津
花火数 2万発  1.8万発  2万発  0.6万発
時間  150分   205分  205分   50分
人出  70万人  76万人  89万人    6万人
*大曲は昼と夜の部の合計、長岡は2日間の合計です

時間当たりの花火の数でいくと

1位 土浦 134発/分
2位 江津 120発/分
3位 長岡  98発/分
4位 大曲  88発/分

と3大花火大会と遜色なしです。

それと、人出が少ないことです。
これは大きなアドバンテージです。

長岡、大曲の50万人近くの人出は、
昼からの「場所取り」を意味します。
そして開始まで炎天下の中を何時間も
待つ必要があります。

一方、人での少ない江津では、
花火の始まる1時間も前に最寄りの駅を出れば、
しっかり花火の見える場所が確保できます。

また、会場も上記の2つの花火大会では最寄り駅から
半時間程度の徒歩でした。
一方江津は、駅から10分も歩くだけ。

江津の花火は
楽チンに、
  3大花火大会を凌ぐ密度の高い花火が見れる」

ということです。

花火自体の演出は、改善の余地がありますが、
川面には4000個の灯籠が流れ、山にはネオンサイン
という演出は、さらに花火を盛り上げます。
川面の灯籠と花火
山に見えるネオンサイン
「人」と「★」が点滅する

「郷土愛」丸出しの内容ですが、ご勘弁を!!

「豪雨の江津」でなく
「お盆の花火は江津」でご記憶ください。 

2013年8月19日月曜日

史跡探訪:広島呉

広島呉市、戦艦大和が造船された町。
仕事の帰る途中に入船山公園に立寄ました。

       旧東郷邸
東郷平八郎が呉に在任中(1890年〜1891年:海軍大佐時代)
に居宅していたそうです。

     旧呉鎮守府司令長官官舎
明治22年(1889年)に軍政会議所兼水交社として建設され
明治25年(1892年)から昭和20年(1945年)まで、
32代の長官官舎として使用されたそうです。




        火薬庫

















明治32年(1899年)から3ヶ年をかけて作られた火薬保管庫です。

呉の駅からも車で5分くらいで、入船山公園に上る
並木路はなかなか風情がありました。

2013年8月13日火曜日

史跡探訪:長岡(新潟)

司馬遼太郎さんの小説をはじめて読んだのが「峠」。
その主人公が、幕末の長岡藩士河井継之助。

型破りな武士で痛快な男。
知行合一の陽明学を学び、長岡藩の中堅武士から
家老に抜擢され、戊辰戦争での舵取りを任されます。

継之助は長岡藩を独立中立の立場で切り抜けようとし、
押し寄せてくる官軍の軍監土佐藩士岩村精一郎と
小千谷で談判します。

その会談場所が、慈眼寺です。



本堂の前には、大きな石碑があり
「伏見ノ変前将軍徳川慶喜恭順罪ヲ待チ
関東ノ形勢一変スルヤ奥羽列藩同盟シテ官軍に抗ス・・・」と






















これが、河井継之助と岩村精一郎が会見した場所。
継之助の中立論が受け入れらず、談判は30分で決裂し
長岡藩は奥羽列藩同盟に参加し、北越戦争への突入します。


司馬さん訪れた時に残した一筆も展示されていました。

小説「峠」の峠が、この榎峠。
慶応4年(1868年)5月に戦いが行われたのでした。






そして官軍と長岡城中心に激戦を繰り返すものの長岡城は陥落。
その交戦中に継之助は左膝を負傷し、会津に向けて落ちようとします。



継之助は、途中の只見村で松本良順(「胡蝶の夢」の主人公)に診察を受け、
その後、塩沢村にて息を引き取ります。
上の写真は、長岡駅の近くにある栄涼寺の継之助の墓所です。


継之助の自宅跡地に河井継之助記念館が、その玄関で継之助とツーショット。
念願の継之助に会うことができました。

峠に登場していた人物で印象に残っている人物がいます。小林虎三郎です。
虎三郎と継之助は政治的な思想の違いで、対立をしていました。

ある日、虎三郎の家が火事になります。
困窮していた虎三郎に、継之助が火事見舞いにいきます。

虎三郎は継之助の好意に感動し感謝します。

そして、お返しする力も何も残っていない、
厚情に対する恩礼としてできることは・・・と
継之助のやり方を痛論し、欠陥をえぐり、批判を長時間したのでした。
これがお礼でした。

継之助は腹が立つものの、ブレないところ、卑しさのなさに
小林のえらさを感じたのでした。


小林虎三郎の墓所のある興国寺



















虎三郎は佐久間象山の門下で吉田松蔭(吉田寅次郎)と同門で
佐久間象山門下の「二虎」と呼ばれていたそうです。

そして、「米百俵の精神」を根付かせたのでした。
「米百俵の精神」とは北越戦争で焦土化した長岡に、
支藩の三根山藩から見舞いの米が百俵送られてきました。

食べることにもこと欠く状況の中、
「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」
と米を売り払い、その代金を国漢学校に充てたのです。



















「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」
という精神を「米百俵の精神」というそうです。

コミュニティー広場にある、モニュメント。
「米を分けろ」と迫る人々に、虎三郎が切々と説いている場面です。

そして、もう一人の長岡出身者、山本五十六。
日本連合艦隊司令長官、海軍大将。
山本五十六の記念館には、五十六がブーゲンビル島上空で
撃墜され亡くなったときに搭乗していた
飛行機の残骸がも展示されていました。

記念館の道を隔てた反対側には山本五十六公園があります。
五十六の生家が見学できます。
旧長岡藩の藩士高野家の6男に生まれ、その時父が56歳だったことで
「五十六」と名つけられたそうです。
その後、旧長岡藩家老の山本家を相続して「山本五十六」となったのでした。

山本五十六の好物だった「水まんじゅう」。
長岡を懐かしみながら食べる場面が映画でもありました。
記念館に展示されている家族への手紙に中にも
「水まんじゅう」のことが書かれていました。



水まんじゅうの川西屋本店。
水まんじゅうとは、川西屋の商品名では「酒まんじゅう(塩小豆)」
と言うそうです。

残念ながら、塩小豆味は売り切れ、
隣の(甘)を買って、日本一とも言われる長岡の花火大会へ・・・

2日間連続で開催されます。


「フェニックス」という名の花火は感動ものでした。
(上の写真は違います)
何しろ、壮大な規模、迫力・・・
終わりのころには、思わず拍手をし、
「すごい、すごい」と声をだしていました。

山下清の「長岡の花火」そのままでした。

2013年8月12日月曜日

ホーチミン:ベトナム

7月末にベトナム、ホーチミンに行ってきました。

クライアントのベトナム工場視察と
今後の展開についての打ち合わせで、
1996年4月にホーチミン・ハノイを初めて訪問し、
17年振りの訪問でした。

ベトナムは、GDPでは1,227億ドルで広島県と同じ経済規模。
人口は8,700万人、1人当GDPは1,374ドル。
実質経済成長率は5〜6%。
日本からの投資は、2011年208件で1,849百万ドル(約1800億円)で
香港、シンガポールに次いで第3位の投資国です。
進出している日本企業数は1542社(2012年帝国データバンク調査)。

17年前1996年の実質GDPは2,138,830億ドン。
2011年は5,847,030億ドンと2倍以上(名目GDPでは約9倍)と
着実に、経済成長発展しつつあります。

しかしながら、17年前と変わらないのは縦横無尽なバイクの運転。
毎日一度は、「ヒヤッ」とする場面も。
ベトナムで運転するには、
日本で相当な危険予知運転の訓練が必要みたいです。


前回は、覚悟して道路を横断する
(横断歩道もなければ信号もないところで、
バイクと自動車が押し寄せてくるのを
渡るのですから、それなりの覚悟が・・・)
という経験をしました。

今回はさらにレベルアップ。
「工場の近くまでタクシーで行って待っていろ」という指示。
まさか・・・・と思っていると、案の定バイクの後部座席へ・・・


スリリングな経験でした。

確実に発展しつつあるという印象を受けました。
高層ビルは増え、道路が一面舗装されてすっきり
したように感じました。


そして、工場訪問。
稼働して1年半、多くの課題を乗り越えてきましたが、
当初の計画通り、それ以上のペースで稼働しています。



「シンチャオ(こんにちは)」と声をかければ、笑顔で返してくれます。
明るい雰囲気で、熱心に仕事に取り組んでいる様子が感じとれました。

何しろ「品質第一」を再認識していただき、
更なるレベルアップのために
「5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)」の概念

日本人は、単なる綺麗好きで「5S」を行っているのではなく、
「生産性の向上」「品質向上」に寄与する

とお話してきました。

現地法人の経営者との数度のミーティングを通して、
事業に対する取り組み姿勢、思いを感じると同時に
信頼関係ができていることも確認できました。


 また、次のレベルアップのテーマに手を取り合って
進んでいきましょう。

2013年8月7日水曜日

「戦闘はしても、戦争はしていない」

本日、メールマガジン「司馬作品に学ぶ経営心得 第46号」
を配信しました。

前回に引続き、西南戦争を描いた「翔が如し」から紹介しています。

「戦闘はしても戦争はしていないというようなものであった」

と薩摩軍の政略性・戦略性の欠如を、司馬さんは表現しています。

現代風には
「仕事はしても、経営はしていない」
と置き換えて考えることができます。

是非、ご一読を!!

2013年8月5日月曜日

自信がないなら、やめてしまえ!!

久しぶりに某メーカーに近況を訪ねに訪問しました。

ここ数ヶ月、戦略的な商品が順調に伸びていることを
確認して帰ろうとした時のことです。

社長の側にいてずっと聞いていた社長夫人が、

「2年前の『自信がないなら、やめてしまえ』
             という言葉で眼が覚めました」

と・・・、確かにその趣旨のことを言った記憶があります。

当時、その会社は全体の業績が振るわず資金繰りもままならず
自信喪失状態でした。

営業活動を行うことに対しも、否定的・消極的な感じでした。


しかしながら、そのメーカーは長い歴史を積み重ね、
一所懸命・愚直にいいものを製造していたのでした。


「『一緒懸命つくりました、最高のものです』
と胸を張ってください。それを広めるのが営業活動です。」

そして思いあまって

「そんなに自信がないなら、
 やめてしまったらどうですか?
 ええ加減なものを出されては、世の中の迷惑です」



と相当厳しいことを言った覚えがあります。

あれから2年。

まだまだ多くの課題はあれど、
覚醒した二人は着実に進んで行っています。
焦らずに、スピードを上げて頑張ってください。