2014年7月27日日曜日

浴衣でCarpの応援


 
昨日、Carpの応援に行ってきました。
 
和服業界の浴衣でカープを応援する
というイベントに参加してきました。
 
一昨年、昨年とスケジュールの関係で参加できませんでしたが、
やっと3年越しで浴衣を着て参加することができました。
 
浴衣を着るのは20年以上ぶり・・・・
 
過去2年お誘いを受けた時は、
カープのサヨナラ勝ち、逆転勝ち。
 
スタジアムに向かうタクシーの中で
初回に3点先制されたという情報が流れ
「臼杵が参加したら、負ける」
というジンクスができては・・・・
と心配していました。
 
 
7対5で阪神に勝利し、
心配していたジンクスが生まれることもなく、胸をなでおろしました。
エルドレッドのホームランも見ることができました。
 
友人から、LINEで「テレビ映ったよ」との連絡も途中で入ってきました。
 
いろいろな社員イベントを、
アイデアを凝らし行っている会社だけあって、
団結力をこの機会を通じても感じさせていただきました。
 
楽しいカープ観戦でした。
 
一緒させていただきありがとうございました。
 

2014年7月21日月曜日

計画と対比して

クライアントとの会話
「前月まで調子(売上)よかったのですが、今月ガクンと落ちて・・・」

また、あるところでは
「どうも、単価が悪い(低い)ように思うのですが・・・」

「具体的にね。具体的に!!
 計画と付き合わせて確認してみましょう」

と、月毎に落とし込んだ計画に、
実績を付き合わせながら
確認していってみると。

「あれ? 
 今月ガクンと落ちていると思ったら、計画通りなんですね。」

「あれ?
 単価は計画どおり推移しているんですね。
 ということは、別の要因ですね。」

などなど。
このようなケースは頻繁にあります。

現状認識をただしく行うこと、
それがスタートラインです。

そのためには、極めて当たり前のことですが、
実績の確認は、感覚ではなく、
面倒でも、

きちんと計画と対比して

進めて行くという体質・風土を
作って行く必要があります。

2014年7月14日月曜日

「たかが金儲けで・・・」 メルマガ第57号

本日、メールマガジン第57号を配信しました。

高田屋嘉兵衛を描いた「菜の花の沖」からご紹介しています。

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 たかが金儲けで、上方と蝦夷地を往復するという
 命がけのしごとがつづけられるものではない。


 蝦夷地を、京のある山城国や江戸のある武蔵国と
 おなじ暮らしができる土地にするためだ


      菜の花の沖 (4巻)波涛
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ビジョンの力について書いています。

是非ご一読を!!

2014年7月3日木曜日

100万ドルの夜景 函館

 函館山から100万ドルの夜景を楽しみました

ロープウエイで山頂に登り、日が沈むのを待ちました。







































JR函館駅からの函館山















港の埠頭には、昨年の大河ドラマの
新島襄の海外渡航の碑と、像がありました。




 
 

治元年1864年6月14日の深夜この地から
国禁を犯して海外渡航をしたそうです。








函館山の山頂には、日本全土と測量した伊能忠敬の
「北海道最初の測量地」の碑が掲げられていました。

隠居して後、50歳で弟子入りし、
55歳から72歳までの17年をかけて測量をした・・・

高田屋嘉兵衛さんと、同時代を生き抜いた人で、
菜の花の沖にもでてきます。

北海道の土産としても有名な、トラピスト修道院と

トラビスチヌ修道院。

トラピスト修道院は男性で、函館の西に位置してました。
並木が続く、中に聳え立っていて、
厳律の修道院のイメージピッタリ。



一方、トラピスチヌ修道院は女性で、函館の西に位置し、
多くの観光客を集めていました。
ガイドさんの説明によると、
修行の期間、テレビ、インターネット無し等々、
下界とは遮断され修道院の外には
選挙以外、外出できないとのこと。

入門が許可されると、右の塀にある扉から
下着ひとつで、入院していくとのことでした。


帰りの飛行機から撮影した夕焼け

それはそれは、美しゅうございました。


訪函前は、豪雨で札幌-函館間の特急が不通になったり、
訪問中は、木古内で貨物の脱線事故があったものの、
スケジュールには何ら影響せずに、
高田屋嘉兵衛さんにも会えたし、
土方歳三さんにも・・・
爽やかな函館を満喫できた充実した旅でした。

史跡探訪 函館 幕末

幕末の日米和親条約の箱館開港に伴い、
開設されたのが五稜郭。
そのど真ん中には箱館奉行所置かれていました。


その後、旧幕府軍の土方歳三らは五稜郭を占拠し、
箱館政権を樹立しました。

五稜郭タワーの1Fには、土方歳三そして
箱館政権(蝦夷共和国)の総裁となった榎本武揚の像がありました。






司馬さんの「燃えよ剣」では、土方歳三の漢(おとこ)が描かれています。
現代でもそのまま、イケメン・ハイカラで通る、
スマートな漢だったことを彷彿させる像でした。


そして、榎本武揚。
旧政府軍は降伏しますが、その才能を買われて福沢諭吉も助命に尽力し、
明治政府の逓信大臣、農相大臣、文部大臣等々の要職を歴任します。




















土方は、五稜郭を陥落させた後に松前に進駐し、
松前城(福山城)を落とします。































松前城から見た、本州。

松前城の城壁には、土方が射ったとされる大砲の跡が
3カ所残っていました。
















その後、土方は残兵を追い江差に北上します。

















遠くに見えるのが江差

新政府軍の上陸の時に、
備前岡山藩の宿所とされた横山家
















長州藩宿所とされた関川家、現在病院になっていました。

















榎本は土方を海から援護するために、
軍艦「開陽丸」を向かわせます。








































しかしながら、「開陽丸」は暴風雨に襲われ江差にて座礁します。
防波堤のところくらいで座礁したようです。

















その座礁し、沈没する姿を榎本と土方は見て、
そばにあった松を叩いて嘆いたのでした。



この松が、「土方歳三涙の松」

「開陽丸」が再現していある「開陽丸青年センター」には
榎本武揚のオランダ語(多分?)・・・











「事業は最良の師なり」という意味だそうです。
心せねば・・・・

「開陽丸」は、幕末に外国列強の脅威にさらされた幕府が
国防のために、オランダ発注して建造した戦艦です。
それに伴い留学させたのが榎本武揚。
その中には、西周もいました。

鳥羽伏見の戦の時に、徳川慶喜がこっそり
大坂から江戸に脱出したときにも使われました。

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中国では、この開陽という名は、北斗7星の杓の柄の、
2番目の星につけられた名でもある。
かつては北極星でもあった。(略)
天はこの星を中心に回るように見えるから、
光を闇の中に引っ張り出す力をもった星とも考えられた。
(略)
開陽。日の光をもたらす星、(略)北極を示す星。
フォールリヒテル。夜明け。じつにいい名前だ。

(「武揚伝」より)

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Voor Lichter: 夜明け、導く人、前方を照らす人
という意味が気に入り、私の主宰するリーダー塾は
「開陽塾」と名付けさせてもらっています。

そして土方らは、箱館に凱旋し、最後の戦いに挑みます。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の総攻撃が開始されます。
新撰組を中心に守備していた弁天台場は包囲され孤立します。













当時は長崎の出島のようになっていたようですが、
今は埋めたてられ、公園になっていました。
「新撰組最期の地」の碑が建てられていました。

五稜郭で戦況の見ていた土方は市街地におもむきました。

















五稜郭タワーから函館山の景色。
こんな、感じで土方も戦況を見守っていたのかもしれません。


一本木関門を出て、敢然と斬り込んでいき、銃弾に当たり
この地で最期を迎えたのでした。









函館の駅の近くに関門がありました。

今までいろいろと歴史上の人物の碑やお墓を巡ってきましたが、
こんなに多く献花されたいたのは記憶にありません。

そういえば、土方の出身地の東京のお墓も同様でした。
今でも土方歳三の人気の高さを垣間みたようです。

称名寺には、高田屋嘉兵衛一族の墓の近くに、
土方歳三と新撰組隊士の供養碑がありました。














幕末の騒動の引き金となった
ペリーの足跡も見ることができました。

安政元年(1854年)ペリーは日米和親条約を幕府と締結し、
その直後5隻の艦船で、箱館に入港しました。
その時の松前藩家老との会見所跡。
















有力商人だった山田屋寿兵衛宅だったそうですが、
今は、案内看板一つが立っているだけでした。

元町公園には、黒船来航150年を記念して、
「ペリー提督来航記念碑」が建てられ、
ペリー広場という名前が付けられていました。











そして、市内電車の十字街には坂本龍馬の像が・・・




















龍馬は蝦夷開拓の意志を持っていたものの、
遂げることが出来ませんでした。
その遺志を継いで子孫が北海道に渡り、
開拓に足跡を残したということから、
坂本龍馬記念館もありました。

北海道を代表するお菓子の「六花亭」のデザインは、
本家8代目の山岳画家の坂本直行さんが手がけられたようです。