2019年12月7日土曜日

「 エネルギーに方向をあたえる者がつまり英雄という存在 」メルマガ第122号

本日メールマガジンを配信しました。


幕末の長州藩の医者、蘭学者、兵学者大村益次郎(村田蔵六)
を描いた長編小説「花神」から、今回は連続7回目のご紹介です。
 
◇◆◇◆◆◆◆◆◇◆ < 珠玉の言葉 > ◆◆◆◆◆◇◆◇◆◇◆
 
「 エネルギーに方向をあたえる者がつまり英雄という存在 」
     花神 (下) 蒼天 
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現代のリーダーについて記しています。
是非ご一読ください。

2019年11月15日金曜日

「 これは、自分が直接指揮をせねばならない」メルマガ第121号

本日メールマガジンを配信しました。

幕末の長州藩の医者、蘭学者、兵学者大村益次郎(村田蔵六)
を描いた長編小説「花神」からご紹介します。


◇◆◇◆◆◆◆◆◇◆ < 珠玉の言葉 > ◆◆◆◆◆◇◆◇◆◇◆

「 これは、自分が直接指揮をせねばならない」

     花神 (中) 石州口 
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第2次長州征伐、またの名を四境戦争。
村田蔵六(大村益次郎)は石州口の総指揮をとり、
石見浜田城奪取を目指します。


浜田藩の西端の益田で繰り広げられた
「万福寺の激戦」といわれる戦闘で蔵六は・・・


ご興味ある方は是非ご一読を!!

2019年10月13日日曜日

「闘戦経」講演してきました

先週10月09日(水)に広島県大竹市の経済団体「二水会」で
「闘戦経」について講演をしてきました。

2014年03月の「司馬遼太郎作品に学ぶ経営心得」
(私の配信しているメールマガジンをネタ)
に続き2度目の機会でした。

講演時間が1時間弱ということもあり、
闘戦経との出会い、孫子との基本コンセプトの違い
について絞って説明しました。

翌日、会長様より
「大変興味深いお話に、好評を得ました」との
丁寧なお礼状もいただきました。 

こちらこそありがとうございました。


萩往還を終えて

今回の旅は、萩往還観光誘致制度創設委員会のガイドHP
http://hagi-okan.yamaguchi-city.jp/route/route04.html
を参考に、

1日目 ・広島から防府まで車
    ・10時前に防府スタートし3時過ぎに山口到着
    ・山口からバスで防府、車で広島。

2日目 ・広島から山口駅まで車
    ・9時前に山口スタート、14時半に佐々並到着
    ・佐々並からバスで山口、車で広島。

3日目 ・広島から佐々並まで車、
    ・9時半に佐々並をスタート、3時過ぎに萩到着、
    ・萩からバスで佐々並、車で広島に。

という行程でした。

ガイドブックでは53キロ、目安は17時間半でしたが、
私のiPhoneの計測では70.4キロ、16時間でした。

防府のスタート地点で
萩往還ルートに入るのに彷徨ったこと、
ところどころ史跡に立ち寄ったこと、
山道で道を間違えたこと等々
で距離的なロスが発生したみたいです。

幕末の志士に想いを馳せながら・・・
と思い歩き始めるものの、

運動不足(普段3〜4千歩)と、
想定していたよりも厳しいルートが相まって、
毎回、終盤の1時間は膝の痛に耐えながらという状況で、
それどころではありませんでした。

特に2日目は、
途中にコンビニも自動販売機もない、
水も、お昼のおにぎりも購入できない・・・
スタート時の500mlの水だけで
最後まで歩き切らざる得ない、
というかなりしんどいものでした。

ただ、随所にある木立の中の石畳は
美しくも、歴史を感じさせるものでした。
そして、その大土木作業は驚嘆に値するものでした。

急傾斜の山道には、
お殿様も通る道、
少々周っても傾斜の緩やかなところを通せばいいのに
長州の人は「緩やな周り道より、険しくとも直線的な道」
の方を好むのか・・・
と何度思ったことか。
改めて拡大地図で見て見ると、
萩⇄防府がほぼ直線で結ばれている
ことを確認したのでした。

体力的にきつかったものの、
毎回、山口名物外郎をお土産にするのを楽しみに、
充実した萩往還でした。

萩往還 その12 道の駅→萩(唐樋札場跡)

悴(かせが)峠をこえると、道の駅「萩往還」
維新の志士の像がありました。

山形有朋 木戸孝允 伊藤博文

品川弥二郎 山田顕義

天野清三郎  野村和作


高杉晋作 吉田松陰 久坂玄瑞


大屋刑場・女体解剖地跡

宝暦9年(1759年)
毛利藩医栗山孝庵が日本初の女体解剖を行ったそうです。
供養するお地蔵さんもありました

悴坂一里塚


萩往還梅林園


涙松遺跡



萩城下が見える最後の場所、
松並木の見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すことから
街道並木を「涙松」と呼ばれたそうです。


吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られるとき、
「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入ぬるる涙松かな」
と詠んだとのこと

JR萩駅



金谷天満宮・大木戸

城下の表玄関の大木戸があったところです

道標の「諸方程里」と書かれた面には

周防宮市  13里
讃岐金比羅 78里
摂津大阪  130里
西京    143里

「当社ヨリ」と書かれた面には

肥前長崎 76里
肥後熊本 68里
筑前宰府 48里
長門下関 22里

「之⚪︎票」の面には

津和野  14里
高津人丸 17里
出雲大社 55里
東京  274里
と刻まれていました。

唐樋札場跡

幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示し、
多くの人に知らせるために、
道路の交差する辻や街道沿いの宿場町など
人通りの多いところに設けられたようです。

萩往還は、この札場跡を始点として
防府の御船倉跡を終点としています。


今回、防府側からスタートしているため、
この札場跡を終点として
最終日 23.8キロ 5時間半 30,842歩
で萩往還完歩です。 

2019年10月12日土曜日

萩往還 その11 明木→ 悴坂

赤木橋

吉田松陰が下田での密航を企て萩に送還される際に、
安政元年10月24日、赤木橋を通り詩をよみました。


その詩の石碑
「私は少年のころこの明木橋において志を書いたことがある。
 そして今、檻に入れられて返えされてきたが、
 故郷に錦を飾って帰る思いである」
という意のようです。

殉難三士の原

幕末、第一次長州征伐で長州は佐幕に傾きます。
改革派の高杉晋作らが蜂起し太田絵堂の戦いで、
佐幕派を退け倒幕に戻します。
高杉らに萩に突入しないようにと、
折衝した佐幕派の4人の藩士がいました。
事前協議もなく勝手に折衝したと、
その折衝の帰りにこの明木権現原で、
3人の藩士が殺害された場所です。



そして、悴(かせが)坂の烏帽子岩に梟首されました


鹿背隧道

悴坂峠を貫通する182mのトンネル。

明治17年(1884年)に開通した、
石積の坑口、内部は総石張りで有形文化財に
登録されているようです。

ただ、萩往還はこのトンネルではなく、
右の急峻な山道を越えよ、という案内板が・・・
これが最後の峠と、
膝の痛みに耐えながら登っていきました。

悴坂駕籠建場・茶屋跡

萩往還 その10 佐々並→明木

佐々並にある「市頭一里塚」

佐々並の街並
宿場町だったようです。

「萩往還」の図柄がデザインされたマンホールが・・・


佐々並の街を抜けると、山を登っていきます


千持峠の石碑


落合の石橋


フェンスで通行止めかと思いきや「通行可」??
害獣対策なのでしょう・・・
このパターンのフェンスが所々にありました


庚申塚


新切の石畳




「彦六の道別れ」

彦六と又十郎という若者が、
萩城築城時に石積み職人として活躍した。
恩賞には何を所望するかとの質問に、
郷人に対する口屋銭(通行税)の
免除を申し出て受け入れられた。

明木の町の恩人として、語り継がれているようです。


町田梅之進自刃の地

萩の乱で、旧藩士町田梅之進が新政府軍と戦い自刃した場所です

道に沿った清流の水音と鳥のさえずりが
自然を堪能させてくれます。


明木の町にある道標
「慶應三年」という文字は読むことができました。



乳母の茶屋

毛利家の乳母をしたことで毛利公から茶屋を下賜された、
のが名前の由来のようです。

漫画は、上記の明木の恩人、彦六と又十郎。

2019年10月9日水曜日

「 経験だけで敵とたたかう戦闘指揮者は・・・」メルマガ第120号

本日、メールマガジンを配信しました。

今回も前回に引き続き、
幕末の長州藩の医者、蘭学者、兵学者大村益次郎(村田蔵六)
を描いた長編小説「花神」からご紹介してます。

◇◆◇◆◆◆◆◆◇◆ < 珠玉の言葉 > ◆◆◆◆◆◇◆◇◆◇◆

「 経験だけで敵とたたかう戦闘指揮者は
   たとえ勝利を得ることがあっても、
       きわめてあぶない勝利である

     花神 (中) 長門の国
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是非、ご一読を!!

2019年9月30日月曜日

萩往還 その9 国境の碑→佐々並

国境の碑を越えると、なだらなかな下り坂が続きます。

吉田松陰が安政6年(1859年)に
東送される時に休憩をとった場所。
その時の詠んだ漢詩が碑となっていました。
「私は幕府の命令で江戸に送られるが、
 自分の真意は天の神に正したらわかるはずである。
 自分は公明正大である。
 ここ夏木原では、五月雨がしとしと降り、
 ほととぎすがしきりに鳴いている。
 ほとどぎすは血を吐くまで鳴くと言うが、
 その血で、このあたりのさつきつつじも真紅に燃えている。
 自分の胸中もまた同じ思いがする」
という意のようです。

上長瀬一里塚


日南瀬の石風呂(復元)
お湯に入るようになったのは江戸中期以降のようで、
それまでは石風呂の中で火をたき、底の石を焼き、
海藻を敷き、着物を着たままに入っていたと・・
山中には当時の石風呂が残っているそうです。

日南瀬の首切れ地蔵

吉田松陰東送通過の地

貴布弥神社へ続く石段

佐々並のお茶屋跡

本日は佐々並で終了。

22.2キロ 5時間半(30分程度、横道・休憩含む)
歩数28,697歩
標高537mの板堂峠を越えるハードな工程でした。