2013年8月13日火曜日

史跡探訪:長岡(新潟)

司馬遼太郎さんの小説をはじめて読んだのが「峠」。
その主人公が、幕末の長岡藩士河井継之助。

型破りな武士で痛快な男。
知行合一の陽明学を学び、長岡藩の中堅武士から
家老に抜擢され、戊辰戦争での舵取りを任されます。

継之助は長岡藩を独立中立の立場で切り抜けようとし、
押し寄せてくる官軍の軍監土佐藩士岩村精一郎と
小千谷で談判します。

その会談場所が、慈眼寺です。



本堂の前には、大きな石碑があり
「伏見ノ変前将軍徳川慶喜恭順罪ヲ待チ
関東ノ形勢一変スルヤ奥羽列藩同盟シテ官軍に抗ス・・・」と






















これが、河井継之助と岩村精一郎が会見した場所。
継之助の中立論が受け入れらず、談判は30分で決裂し
長岡藩は奥羽列藩同盟に参加し、北越戦争への突入します。


司馬さん訪れた時に残した一筆も展示されていました。

小説「峠」の峠が、この榎峠。
慶応4年(1868年)5月に戦いが行われたのでした。






そして官軍と長岡城中心に激戦を繰り返すものの長岡城は陥落。
その交戦中に継之助は左膝を負傷し、会津に向けて落ちようとします。



継之助は、途中の只見村で松本良順(「胡蝶の夢」の主人公)に診察を受け、
その後、塩沢村にて息を引き取ります。
上の写真は、長岡駅の近くにある栄涼寺の継之助の墓所です。


継之助の自宅跡地に河井継之助記念館が、その玄関で継之助とツーショット。
念願の継之助に会うことができました。

峠に登場していた人物で印象に残っている人物がいます。小林虎三郎です。
虎三郎と継之助は政治的な思想の違いで、対立をしていました。

ある日、虎三郎の家が火事になります。
困窮していた虎三郎に、継之助が火事見舞いにいきます。

虎三郎は継之助の好意に感動し感謝します。

そして、お返しする力も何も残っていない、
厚情に対する恩礼としてできることは・・・と
継之助のやり方を痛論し、欠陥をえぐり、批判を長時間したのでした。
これがお礼でした。

継之助は腹が立つものの、ブレないところ、卑しさのなさに
小林のえらさを感じたのでした。


小林虎三郎の墓所のある興国寺



















虎三郎は佐久間象山の門下で吉田松蔭(吉田寅次郎)と同門で
佐久間象山門下の「二虎」と呼ばれていたそうです。

そして、「米百俵の精神」を根付かせたのでした。
「米百俵の精神」とは北越戦争で焦土化した長岡に、
支藩の三根山藩から見舞いの米が百俵送られてきました。

食べることにもこと欠く状況の中、
「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」
と米を売り払い、その代金を国漢学校に充てたのです。



















「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」
という精神を「米百俵の精神」というそうです。

コミュニティー広場にある、モニュメント。
「米を分けろ」と迫る人々に、虎三郎が切々と説いている場面です。

そして、もう一人の長岡出身者、山本五十六。
日本連合艦隊司令長官、海軍大将。
山本五十六の記念館には、五十六がブーゲンビル島上空で
撃墜され亡くなったときに搭乗していた
飛行機の残骸がも展示されていました。

記念館の道を隔てた反対側には山本五十六公園があります。
五十六の生家が見学できます。
旧長岡藩の藩士高野家の6男に生まれ、その時父が56歳だったことで
「五十六」と名つけられたそうです。
その後、旧長岡藩家老の山本家を相続して「山本五十六」となったのでした。

山本五十六の好物だった「水まんじゅう」。
長岡を懐かしみながら食べる場面が映画でもありました。
記念館に展示されている家族への手紙に中にも
「水まんじゅう」のことが書かれていました。



水まんじゅうの川西屋本店。
水まんじゅうとは、川西屋の商品名では「酒まんじゅう(塩小豆)」
と言うそうです。

残念ながら、塩小豆味は売り切れ、
隣の(甘)を買って、日本一とも言われる長岡の花火大会へ・・・

2日間連続で開催されます。


「フェニックス」という名の花火は感動ものでした。
(上の写真は違います)
何しろ、壮大な規模、迫力・・・
終わりのころには、思わず拍手をし、
「すごい、すごい」と声をだしていました。

山下清の「長岡の花火」そのままでした。