「『坂の上の雲』に学ぶ中小企業経営力」を読みまして講演を
お願いしたいのですが・・・・
「場所は、横須賀の記念艦三笠の講堂で・・・」
「えっ!! 今なんておっしゃいました?」
「三笠の講堂で・・・」
東郷平八郎、秋山真之が乗船していた日本連合艦隊の旗艦三笠。
坂の上の雲の関連本を著した私にとっては、これ以上ない最高の舞台。
ということで、8月2,3日と2日間にわたり、
三笠の講堂で講演をしてきました。
東京のエンゼル・フーズ株式会社という、
幼稚園向けお弁当のNo1カンパニーからの御依頼でした。
三笠の講堂を見学以外の目的で外部に貸し出すということは前例がなく、
今回が初めての試みだったそうです。
昨年末に送られてきた今回の研修会の資料をみて、またビックリ!!
A4で50ページ以上もある、手作りの資料でした。
場所といい、資料といい、熱意が伝わってきました。
講演前日のにでてきた要望も、
「熱意には熱意で返さねば」
と、ホテルに帰って深夜まで講演シナリオを変更。
1時間半の講演を汗びっしょりになりながら無事を終えることができました。
社長の思い、そして私からのメッセージも皆さんに届いたみたいです。
忘れられない講演会になりました。
この機会を与えていただいた、エンゼル・フーズ様に心より感謝いたします。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
そして、講演終了後、横須賀から少し足を伸ばし、
久里浜のペリー公園を訪問しました。
館内のガイドさんに質問
「なんで、久里浜にペリー記念館があるんです? 」
ペリーは浦賀に停泊。上陸したのは久里浜だそうです。
親切な、ガイドさんに教えてもらいました。
幼稚園向けお弁当のNo1カンパニーからの御依頼でした。
三笠の講堂を見学以外の目的で外部に貸し出すということは前例がなく、
今回が初めての試みだったそうです。
昨年末に送られてきた今回の研修会の資料をみて、またビックリ!!
A4で50ページ以上もある、手作りの資料でした。
場所といい、資料といい、熱意が伝わってきました。
講演前日のにでてきた要望も、
「熱意には熱意で返さねば」
と、ホテルに帰って深夜まで講演シナリオを変更。
1時間半の講演を汗びっしょりになりながら無事を終えることができました。
社長の思い、そして私からのメッセージも皆さんに届いたみたいです。
忘れられない講演会になりました。
この機会を与えていただいた、エンゼル・フーズ様に心より感謝いたします。
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そして、講演終了後、横須賀から少し足を伸ばし、
久里浜のペリー公園を訪問しました。
館内のガイドさんに質問
「なんで、久里浜にペリー記念館があるんです? 」
ペリーは浦賀に停泊。上陸したのは久里浜だそうです。
親切な、ガイドさんに教えてもらいました。
松は「金子松」と呼ばれているそうです。
金子とは「金子堅太郎」のこと。
坂の上の雲にも出てきます(3巻 「開戦へ」)。
日露戦争開戦決定の御前会議後、
伊藤博文に停戦講和の調停を米国に行うよう工作せよ、
と金子は指示されました。
その後、浦賀に立ち寄りました。
愛宕山公園には、2つの碑がありました。
金子とは「金子堅太郎」のこと。
坂の上の雲にも出てきます(3巻 「開戦へ」)。
日露戦争開戦決定の御前会議後、
伊藤博文に停戦講和の調停を米国に行うよう工作せよ、
と金子は指示されました。
その後、浦賀に立ち寄りました。
愛宕山公園には、2つの碑がありました。
「中島三郎助招魂碑」
浦賀奉行所与力の中島三郎助親子は、
旧幕府軍として函館で戦死しました。
碑の題辞は、三郎助と共に戦った榎本武揚が記しています。
浦賀奉行所与力の中島三郎助親子は、
旧幕府軍として函館で戦死しました。
碑の題辞は、三郎助と共に戦った榎本武揚が記しています。
「咸臨丸出港の碑」
咸臨丸は、1860年 品川を出港し、横浜に立ち寄り、
浦賀で食料・燃料等の準備を行い、
そして太平洋を渡っていきました。
咸臨丸は、1860年 品川を出港し、横浜に立ち寄り、
浦賀で食料・燃料等の準備を行い、
そして太平洋を渡っていきました。
愛宕山公園の中腹から見た浦賀港
この沖に4隻の黒船が停泊したのか・・・と思いを馳せました。
そして、渡し船で川を渡ると
徳田屋(旅館)跡
徳田屋(旅館)跡
吉田松陰は、2度宿泊したそうです。
1度目は、熊本藩士宮部鼎蔵と江戸湾沿岸の
防備状況視察のため
2度目は、黒船を見分するため。
そしてここで佐久間象山と会ったそうです。
その後、桂小五郎も、浦賀奉行中島三郎助に
造船技術を教えてもらうために宿泊したようです。
横須賀・久里浜・浦賀と充実した三浦半島でした。