2010年5月30日日曜日

史跡めぐり 坂本竜馬 広島県福山市

坂本竜馬は亀山社中(後に「海援隊」)を設立します。

薩摩の現物出資による1隻目のワイル・ウエフ号は
塩屋崎沖で暴風に会い沈没しました。

そして、長崎の女豪商からお金を借り(保証人は薩摩藩)、
風帆船の「大極丸」を手に入れます。
商売が繁盛しはじめ、船腹が足りなくなります。

そこで、伊予大洲藩に蒸気船を購入させ、
運転は海援隊、そして1航海500両で借りることにします。
それが、45馬力、160トンの蒸気船の「いろは丸」でした。

薩摩藩からたのまれている新式銃器と弾薬を大阪に運ぶことを処女航海としました。

ところが鞆の浦沖六島付近で、紀州藩の明光丸(150馬力、887トン)と衝突してしまいます。
「いろは丸」は沈没してしまいます。

広島県福山市鞆の浦で、談判をすることになります。


これが鞆の浦の港の風景



鞆の浦から弁天島を見たところ



談判するに際して、


竜馬が宿にしていた枡屋清右衛門宅

そして紀州藩の宿舎となった円福寺

談判所となった、魚屋兵衛方
そして、対潮楼



鞆の浦では結論には至らず、長崎で、最終的に決着を見ます。
8万3千両の賠償金を紀州藩から出させることになります。



「平成いろは丸」が、仙酔島まで往復していました。



いろは丸展示館に寄り、昭和に入って、引揚げられた品々を見てきました。


これが、「いろは丸」から引揚げた石炭です。
100円以上の寄付をして、持って帰ることができます。

そして、竜馬クイズも・・案外難しい。  
   


「3級の検定合格書」をいただいて帰りました。

2010年5月18日火曜日

苦労が多いからつらいんじゃない・・・・

「苦労が多いからつらいんじゃない。夢がないからつらいんだ」

以前、東京に出張したときに街を歩いて目にした言葉。
今となっては、どこでメモしたからわからなくなってしまいました。

決して給料は高いわけでもない
その上、福利厚生も整っているわけでない
かと言って楽な仕事でもない
その上、休みもままならぬ

これが、概ねの中小企業の姿。
これだけでは、誰も働こうなんて思わない・・・・

そこで大切なのが

「夢」

夢を、語り、一緒に追いかけようと・・・
中小企業ならでこそ、できることです。
ソニーだって、京セラだって、小さな会社だったころは
「夢」を原動力の一つとしていました。

堺屋太一さんの本の中に、

太古の昔は、血縁社会
中世は、地縁社会
近代は、職縁社会
そして知価時代は、夢縁社会

とありました。なるほど・・・

「夢」、これを経営用語でビジョンといいます。

2010年5月14日金曜日

連チャン講演会


中国新聞 広島県西部中国会総会において、

「中国新聞販売所パワーアップセミナー」

と称して約200人の聴衆の方に、
お話させていただきました。

特に、インターネットの出現により業界の構造が
大きく変わりつつある業界です。

☆ 固定概念の正味期限が終わっていないか、
                       確認せよ
☆ 自社のアイデンティティーはどこにあるのか?等々




と、1時間ばかりの時間でしたが、
どれだけ私のメッセージがつたわったかな・・・

いろいろとご準備いただいた、中国新聞社、そして中販協の事務局の皆さん、有難うございました。


この前もそうでしたが、なぜか講演会は連チャンパターンになるみたいです。

2010年5月13日木曜日

「商売の心は変わらない・・・」

今年1月に広島銀行さん主催の講演会をさせていただきました。
その時に、某社のサービス業の会長さんが参加されており、
「是非、当社の幹部へ・・・」
ということで、本日幹部社員30余人の方に講演をさせていただきました。

3時間の長丁場でしたが、皆さん最後まで熱心に聞いていただけました。
その講演の冒頭に創業者である会長か挨拶なさいました。

印象深い挨拶でした。

「商売の心は変わらない。 『ええ仕事してくれて有難う。今度も頼むよ』ですよ・・・」

かっこつけの挨拶でなく、私に伝わるものがありました。感動しました。
この事業に対する思いが、従業員1000人を超える企業に発展された原動力の一つなのかもしれない・・
と思いました。

講演の方も、ご期待に添えたようで・・・、正直「ほっ」としています。

お忙しい中、わざわざ事前の打ち合わせの作ってくださった社長。
会場の準備やら、手配、出迎え等々、行き届いた環境の中で準備をしてくださった総務部長。

本当に有難うございました。

2010年5月4日火曜日

史跡めぐり 「緒方洪庵誕生地」

一昨日、石州口の戦い史跡を紹介しました。

カメラからパソコンにデータを移している際に、パソコンに取り込んでいない写真がありました。
4月9日に史跡探訪た緒方洪庵誕生の地の写真でした。

不思議なものです、
一昨日の石州口の戦いの長州の司令官が村田蔵六でした。
緒方洪庵、村田蔵六(大村益次郎)は子弟の関係があります。
その二人の関係の写真が私のデジカメから、一緒にでてくるなんて・・・

遅ればせながら、ご紹介させていただきます。

緒方洪庵生誕の地は、岡山市北区足守にあります。
岡山の中心部から小1時間車で走ったところにありました。

これだけの偉人であれば、道路に案内板がと思いきや・・
路の傍らに、小さな案内柱。
普通の速度で走ると必ず見落とすでしょう。




その案内の横の小道を歩いて入っていくと、直ぐに見えてきました。















緒方洪庵(1810~1863)は、江戸時代後期の蘭学者、教育者、文化7年(1810)、
備中足守藩士佐伯惟因の3男としてこの地で生まれた。
15歳の時、大阪蘭方医、中天游の門に入って蘭学をはじめ、
文政3年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。
また、天保7年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長から医学や西洋事情について学んだ。
洪庵29歳の時、医業の傍ら蘭塾「適適斎塾(適塾)」を大阪に開き、福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本佐内らを多くの門弟を育てた。
また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した、そして、嘉永3年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて、足守の除痘館で種痘を施した、近隣を含めてその数500人に及んだと伝えられている。
緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
この生家跡には、子弟面積686平方メートル、中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。


と案内板に説明が・・・・







この下に、臍の緒と遺髪が・・・
残念ながら、資料館のようなものはありませんでした。
洪庵の像と顕彰碑の二つがありました。

洪庵の誕生の地から、歩いて10分くらいのところに、古い町並みが残っています。
その一角に、洪庵の「医戒」がありました。


この石碑には、

緒方洪庵先生扶氏医戒之略

「医の世に生活するのは人の為のみ
己が為にあらずといふことを
其業の本旨とす
安逸を思はず名利を顧みず
唯己れをすてて人を救はんことを願ふべし」

と書かれてありました。

医の世界だけでない、現代のビジネスも同じ

「ビジネスの世に生活するのは人の為のみ
己が為にあらずということを、
其業の本旨とす
安逸を思はず名利を顧みず
唯己をすてて人を救はんことを願うべし」

ですよね!!

医は仁術。算術ではない・・・といわれます。
しかしながら、算術を無視した公営の病院が大きな赤字を抱え、
なり行かなくなっています。

医も我々のビジネスも同じ、
仁術も、算術も必要。

問題はその順番。

仁術の次が算術。

くれぐれも、その逆の順番ではありませんから・・・

2010年5月3日月曜日

史跡めぐり 「石州口」

島根県益田市。

幕末に第2次長州征討が行われ、その一つの戦いの場として石州口の戦いがあった。
石州とは、島根県西部のこと。

長州藩は、津和野藩は幕府の傘下にあれども、交戦せず長州を進軍させる。
そして、浜田藩の扇原関門に・・・






(岸静江国治の碑)


「元治元年1864年江戸幕府と長州藩が逼迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたといわれる。
慶應2年(1866年)6月16日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約1千5百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに先頭が開始された。俗に「石州口の戦い」と言われ、大島口(周防大島)、芸州口(安芸)、小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第2次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌17費には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。」


益田市教育委員会の説明より~


これが、ちょうど藩境の峠。 長州軍側から・・・ 左右に2本の石柱が 

左側の石柱には「従是南津和野藩」と         

右側の石柱「従是北浜田藩」と書かれている

そして長州藩は関門を突破して、この道を下って益田市中に進撃していった。

上の写真の左は、浜田藩側から峠を上っていくところ、

そしてこちらは、峠のトップのとこから津和野藩側を見たところ。


帰って確認してみると、この場面、司馬遼太郎 「花神(中)」 石州口 のところに書かれてありました。
医光寺、勝達寺、万福寺、大麻山・・・等もでてきます。

また、益田に寄ったときには、写真撮ってご紹介します。