2017年8月28日月曜日

備後府中で講演してきました

8月25日 広島銀行さん顧客交流会で、
昨年の6月に引き続きの講演でした。

昨年は、お借りしたプロジェクターとPCの接続に問題があり
パワポが言うことを聞かずに困りました。

恒久対策を施し、今回はパワポも素直に協力してくれました。

「ホントの経営101 リーダー編」というテーマで

1、リーダーとマネジャーはどう違う?
2、リーダーに大切な「中庸」
3、「現実と本質」を峻別せよ
4、「中小企業」で何が悪い
5、「成長」とは?
6、リーダーは「ベクトル」
7、リーダーシップの源泉とは?
8、「事業承継するもの」?

1~3の項目は昨年の復習を兼ねて要点を、
4~8は今回しっかりと・・・と
1時間半お話しさせていただきました。

皆さん熱心にご聴講いただき、
また広島銀行の皆さんにはいろいろとご配慮いただき、
心より感謝いたします。

ありがとうございました。 

2017年8月26日土曜日

「空気を読まず 時流を読む」

なぜかこの言葉頭に残っていて、どこで聞いたんだろう・・・
とネットでいろいろと検索していました。

NHKの智恵泉の佐久間象山編でした。

象山は、佐藤一斎に学び、山田方谷と「佐門の二傑」と呼ばれ、
象山の門下には、勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、小林虎三郎、
河合継之助、橋本佐内・・と幕末の有名人のオンパレードの大学者です。

いままでの、象山のイメージは、自信過剰、傲岸・・・等々の
どちらかというとネガティブなイメージでした。
この「空気を読まず、時代を読む」のKYのところに、
その原因があったのかもしれません。

ただ、「空気が読めない」のではなく、
「空気をあえて読まない」のが象山だったのかもしれません。

NHKの智恵泉HPには「KK(空気を変える)」
人とも記されていました。

「KY<JY➡KK」という大切な方程式がありそうです。
(空気を読まず、時代を読んで、空気を変える)

2017年8月25日金曜日

さてさて、どうやっつけようか・・・

3冊目の本

昨年12月23日に全体構想を練り、
年明けからコンテンツを書き始めました。

いつものように「見えざるを得ない可」をして・・

そして8月の初めに、一応コンテンツ全部を書き上げるところまできました。

書き始めて半年も経てば、最初の内容など覚えていません。
全体的な観点のレヴューが必要です。

ということで、コンテンツのひとつひとつの要点をまとめ一覧に・・・と
一覧にすると、机の上に収まりきれず
なんとこの通り1.2×1.8m 部屋の壁一面に・・・

ひと眺めするだでも、小一時間かかります。

「なかなか、いいんじゃない。全体バランスが取れている」
と思う時もあれば

「重複した部分が、ここにも、ここにも・・・」
と頭を抱えるときも

付箋と赤ペンを持ちながら格闘中です。



2017年8月7日月曜日

「テーマをもっていた人ということですね」メルマガ第94号

本日、メールマガジン第94号を配信しました。

今回は、1970年5月9422日「歴史の中の生きがい」
第一回朝日ゼミナール 東京)というテーマで
司馬遼太郎さんが講演した内容からご紹介します。

◇◆◇◆◆◆◆◆◇◆◆◆◆◆◆◇◆◇◆◇◆

生きがいというと、
非常に平らかな言葉でありますけれども、
自分自身の人生というものにテーマを持っていた人
ということですね。
     
司馬遼太郎全講演(1)「松陰と河合継之助の死」

◆◆◆◆◆◇◆・◆◆◆◆◆◇◆・◆◆◆◆◆◇◆

幕末の二人の人物、長州藩の吉田松陰、
長岡藩の河合継之助生き方を追いながら
「生きがい」を探るという講演でした。

是非、ご一読を!!

2017年8月6日日曜日

熊本 田原坂 記念館等

七本柿木台場薩軍墓地
田原坂周辺の戦いで、木留・七本付近で戦死した
薩摩軍や熊本隊の兵士311人が埋葬されている墓地
七本官軍墓地
西南戦争で戦死した官軍・軍夫・警察官の県内に21カ所ある墓地の一つ。
田原坂の戦いのあと、植木・木留・辺田野・平野・滴水などで
戦死した各鎮台、近衛兵300余名が埋葬されている
西南戦争での弾痕の跡が無数に残る土蔵(復元されたもの)
西南の役戦没者慰霊之碑
官軍6,923人 薩摩軍7,186人 殉難者29人の慰霊の碑
「西郷隆盛」は、薩軍最初に数段大きい字で

史跡探訪 熊本 田原坂

西南戦争の激戦地の田原坂

長さ1.5㎞、標高差60mの坂を官軍は、熊本城を目指し登っていきました。















どこで記憶したのか
「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」
という一文を覚えています。




「田原坂は、こんにちなお往時の景観と大差はない。
 要害といっても自動車でそこを通れば、
 ほとんど気づかぬうちに過ぎ切ってしまうほどに、
 変哲もなさそうである。
 この坂は、小丘陵の稜線を縦に貫いている。
 ただし、丘陵といえるほどの高さもない隆起である。
 要害であるという点は、道路の両側が谷になっていて、
 谷の形状が複雑に入り組み、谷間には水田が耕作されていて、
 軍隊の進行をゆるさないことがまず挙げられるであろう。
 道路にも、特徴がある。(省略)道路が塹壕のように地を
 えぐって造られている。えぐった土が両側に積みあげられ、
 その両側の堆土にはえた樹々が陽を遮り、
 所によっては道を昏くして隧道をゆくような感じの場所もある。
 しかも道路はしきに曲がっていて、その曲り角ごとに塁を築けば、
 坂をのぼってくる政府軍は追いおとされざるをえない。」 

  ~ 翔ぶが如く 9巻 田原坂 ~



















1977年3月1日から始まった田原坂の戦い、
官軍は、攻めあぐね3月20日の官軍の総攻撃で、
1日で495名の戦死者を出しながらも、薩摩軍を制圧していきました。
西南戦争の分水嶺となる戦でした。

田原坂を下ったところに
















3種類の田原坂万十を・・・
















アンコにくるまれた中身が芋、
初めて食べたお饅頭でした。

美味しくいただきました

熊本城

中学の修学旅行以来の熊本城。

震災の復興状況を確認し、一口城主になろうか
とも思い立ち寄ってみました。

近辺の駐車場に止めてたものの、入場できませんでした。
情報確認不足でした
一本杖状態でかろうじて崩落を止めていた部分でしょうか、
クレーンが・・・

近くの公園には、銅像群がありました。

谷干城(たに たてき)の銅像
熊本鎮台司令長官 陸軍少将
西南戦争では熊本城で籠城策をとり、
52日間にわたる薩摩の猛攻に堪えました
「谷干城は土佐人である上に、西郷の下野についても批判的であった。
 谷はどの薩摩出身の少将よりも学問があった上に、
 物事の道理をたてることが好きで、いったん自分が構築した
 道理については決して他に譲らないという並外れた頑固さがあった。
 山県(有朋)は、谷の頑固さを買ったのであろう。
 熊本の攻防戦を想定する場合、熊本鎮台としては徹底的な籠城戦がいい、
 ということは、山県の最初から考えていたことである。
 この方針に適う恰好の守将は、谷干城であった。
 『谷という男は、籠城の守将になるためにうまれてきたような男だ』
 山県はおそらくそう言いたいぐらいに、
 谷という男の性格を知りぬいていた」

 翔ぶが如く 8巻 (熊本鎮台)

そして維新の群像像がありました。
左から
坂本竜馬 勝海舟 横井小楠 松平春獄 細川護久

史跡探訪 熊本天草

1637年に勃発した天草の乱

「切支丹弾圧によって一揆がおこったという見方は、
 島原同様、成立しない。(省略)
 天草諸島が二万石の米もとれないのに、
 表高四万二千石というふうに課税評価が固定していたために、
 その表高によって農民が苛斂誅求されつづけていた」
 ~ 街道をゆく 島原・天草の諸道 (富岡城址へ) ~

宗教弾圧による切支丹の反乱かとばかり思っていましたが、
重税に苦しむ一揆だったんですね。

天草の本渡 
祇園神社の前にある橋(1832年架設)が「祇園橋」




















標柱には「天草の乱激戦地之跡」と。
















天草の乱で、天草四郎率いる一揆勢と
富岡城番代三宅藤兵衛との唐軍が激突した場所。
両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いた、
と説明されていました。
















明徳寺 
島原の乱の後代官鈴木重成によって建立され曹洞宗の寺。
















地下に潜っているキリシタン信仰を、
仏教に転向させるために建立されたようです。




















「石段のところに「十」といった形の十字架が
  刻まれていることに気づいた。
 (省略)自然に十字架を踏みにじりつつ降りていたわけであり、
  むろんそれを意図して、江戸時代の創建早々か、
  それ以降に刻まれたものにちがいない。
  切支丹禁制時代の凄味といっていい」
  ~ 街道をゆく 島原・天草の諸道 (延慶寺の梅) ~


司馬さんの記している「十」を探したのですが・・・




























多分これ???

そして階段降りて、延慶寺へ





延慶寺
































兜梅(熊本県指定天然記念物)
樹齢500年の梅、11メーターにも広がっています。

















兜梅の名前は、
天草の合戦で、天草側の木山弾正の妻が、
騎馬武者姿で奮戦する際に、兜の綴がこの梅にからまり、
身動きできず討たれたことに由来するそうです。



本渡から北岸の海づたいに車を走らせ・・・
天草から島原が霞んで見ることができました
PM2.5の影響だそうです
















九州の天気予報では、PM2.5のコーナーがあるんですね。
  美しい景観への影響度「大」です

そして富岡城へ


















1601年に肥前唐津藩の飛地領として寺沢広高によって築城されました。
天草の乱では、一揆軍から攻撃を受け籠城しました。











城に登る途中に銅像が、天草代官「鈴木重成」像














天草・島原の乱の後、
天領となり初代代官として派遣されたのが鈴木重成。

乱の元凶となった過大な石高を半減するように幕府に要請しますが、
受け入れられず、抗議して江戸の駿河台の屋敷で自刃しました。
その後、受け入れられ半減されます。



城からの眺望








そして、二の丸に「天草回天碑」として4体の銅像が



















天草の恩人として、鈴木重成(後ろ左)鈴木正三(後ろ右)
鈴木重成は前述の通り。
鈴木正三は、鈴木重成の兄。
家督を弟に譲り出家し、弟の要望で天草に赴き
「万民徳用」の教えを島民に説いていきました。

この兄弟二人の遺徳を偲んで鈴木神社が各地にあるそうです。


















そして日本の恩人として勝海舟(前左)と頼山陽(前右)
勝海舟は、長崎海軍伝習所時代に訓練で富岡に来航、
頼山陽は、西遊時に、富岡の儒者を訪ね、天草灘の展望を吟じた、
という関連です。


アダム荒川の記念広場


切支丹禁令で神父が追放された後、教会を守っていたのがアダム荒川。
信仰を捨てず、斬首の刑に処せられました。
ローマ法王によって、正式に「福者」として承認された一人。


富岡城から、車ですこし南に走ると大江教会。
















明治に入り、禁教令が解かれると教会が建てれていきました。
明治16年(1833年)に建てられ、
現在のものは昭和8年(1933年)のもののようです。


さらに、南下していくと、
来年にも世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
として登録される崎津地区。


キリスト教の繁栄と、激しい弾圧の250年の潜伏、
そして奇跡の復活という世界でも類のない歴史
として申請中のようです。

現地のガイドさんは、
「隠れ切支丹」ではなく「潜伏切支丹」と
さらに、
「踏み絵」を踏むのが「絵踏み」と
きちんと区別していました。

















小さな漁村のシンボルとなっているのが崎津教会。
昭和9年に、絵踏みの行われた庄屋跡に建てられ、
絵踏みのが行われた場所に祭壇が置かれています。





















1614年に禁教令が出されます。

1805年に、クリスマスに牛肉や魚肉を祭壇に
備えていることがきっかけで
「天草崩れ」といわれる5,205人が
キリシタンとして摘発された事件が起きます。

その際に、異仏の取り調べが行なわれたのが崎津諏訪神社です。







































崎津の町を歩いていたら見かけたのが

















つい、うなづいてしまいました。

東シナ海の夕焼け