週末、岡山県高梁市に「山田方谷」史跡巡りをしてきました。
司馬さんの小説「峠」で、長岡藩士河井継之助を知り、
継之助が入門した山田方谷を知りました。
山田方谷(1805年〜18077年)江戸末期の備中松山藩士
藩政改革を断行した理財家・陽明学者です。
当時松山藩は50千石といわれていたものの、
実収入は19千石にすぎませんでした。
このなかから藩士および領民への渡し米6千石を差し引くと13千石。
13千石を金に換算すると、19千両余で、
藩主の松山での諸費用3千両、
大阪蔵屋敷等の維持費1千両、
江戸藩邸費用14千両
を差し引くと手一杯という状態でした。
今風にいうと、営業キャッシュフローは回っていたという状態です。
しかしながら、財務キャッシュフローを見ると、
過去の災害等々の出費で、
借入金が100千両(現在価値に直すと約300億円)あり、
借入利息だけでも、年間9千両が発生し、
その利息が払えないため、毎年9千両の借入が増えていたのでした。
方谷の参内していた備中松山城
標高430メートル、天守の現存する山城では、
日本一標高の高いところにあるそうです。
方谷は、
①上下倹約 ②負債整理 ③産業振興
④紙幣刷新 ⑤士民撫育 ⑥文武奨励
を柱に改革していきました。
「方谷園」の中には、方谷の「理財論」の中に書かれてある
教えが石碑になっていました。
方谷園の入り口
「方谷園」は犬飼毅が揮毫した
方谷園の奥には、お墓が・・・
そして、借金10万両を8年で余剰金10万両に、
財政の立て直しをしたそうです。
(上杉鷹山(米沢藩15万石)は借金20万両を余剰金5千両にするのに100年
「方谷の里 ふれあいセンター」の展示資料より)
安政5年(1858年)には、長州藩の久坂玄瑞が、
そして、翌年長岡藩士 河井継之助が方谷のもとに訪れています。
河井継之助は、城下から3里ある方谷の開墾屋敷を訪ねていきました。
JR伯備線「方谷駅」。地元のたっての請願で
初めて人名が駅の名前となったそうです。
駅舎は開墾屋敷の敷地に立っています。
プラットフォームの山側に「山田方谷先生旧宅」の石碑があります。
数年前に訪れた時には、線路を勝手に渡り石碑まで行きました。
今では、線路を渡らなくてもいいように、
昨年3月に新しく石碑が建てられていました。
河井継之助は、8ヶ月間入門しました。
そして、別れの時、継之助は高梁川を渡り
対岸の榎の木下で振り返り、
3度土下座を繰り返し、方谷を生涯の師と仰いだそうです。
方谷の屋敷側から見た「見返り榎」
「見返りの榎」継之助側から
「御茶屋」跡
方谷は藩政にあたるため、月の半分は城下に居住しました。
その際、藩主板倉家の御茶屋が与えられました。
継之助は方谷の許可を得て寝泊まりしていたそうです。
「牛麓舎」跡
城下で開いた家塾跡
臥牛山の麓にあることから名付けられました。
藩主板倉勝静は、最後の将軍徳川慶喜の老中首座になりました。
方谷は政治顧問として仕え、
一節には、大政奉還の上奏文の原文を
方谷が書いたとも言われています。
備中松山城の登山は、
日頃歩いてない私の膝が笑い始めましたが、
継之助と方谷との「見返り榎」を
見る事ができ大満足の歴史探訪でした。