2019年9月30日月曜日

萩往還 その9 国境の碑→佐々並

国境の碑を越えると、なだらなかな下り坂が続きます。

吉田松陰が安政6年(1859年)に
東送される時に休憩をとった場所。
その時の詠んだ漢詩が碑となっていました。
「私は幕府の命令で江戸に送られるが、
 自分の真意は天の神に正したらわかるはずである。
 自分は公明正大である。
 ここ夏木原では、五月雨がしとしと降り、
 ほととぎすがしきりに鳴いている。
 ほとどぎすは血を吐くまで鳴くと言うが、
 その血で、このあたりのさつきつつじも真紅に燃えている。
 自分の胸中もまた同じ思いがする」
という意のようです。

上長瀬一里塚


日南瀬の石風呂(復元)
お湯に入るようになったのは江戸中期以降のようで、
それまでは石風呂の中で火をたき、底の石を焼き、
海藻を敷き、着物を着たままに入っていたと・・
山中には当時の石風呂が残っているそうです。

日南瀬の首切れ地蔵

吉田松陰東送通過の地

貴布弥神社へ続く石段

佐々並のお茶屋跡

本日は佐々並で終了。

22.2キロ 5時間半(30分程度、横道・休憩含む)
歩数28,697歩
標高537mの板堂峠を越えるハードな工程でした。

萩往還 その8 子安観音堂→国境の碑

萩往還大花坂口
ここから勾配がきつくなります

どこにでもある山道ですが、
そのほとんどが石畳で舗装されている立派な街道。

「四十二の曲」がりくねくねした山登り
体力的に相当きつい・・・

やっとたどり着いた六軒茶屋跡



藩主が参勤交代や領内巡視時に比較的長時間休憩する場所を
「お茶屋」と呼んでいたようです。


一ノ坂一里塚跡

昔は塚木があり
「北方 従萩唐樋札場 六里
 南方 従三田尻船場 六里」
と記されちょうどこの場所が萩往還の中間地点でした。

キンチジミの清水
湧き水が非常に冷たく、

飲んだら縮み上がるということから名がつけられたと。
しばし、この水で顔を洗い、体を冷やしリフレッシュしました。

山口市と萩市の境にたどり着きました

小高い丘を登っていくとありました国境の碑。














萩往還 その7 五重塔→ 子安観音堂

五重塔を後にし、
ここから少しづつ上り坂




















振り返ると山口市街地が・・・




















錦鶏湖
















子安観音堂




















安産の仏様のようです。





萩往還 その6 十朋亭→五重塔

大内義隆の菩提寺龍福禅寺
龍福禅寺の隣接している家に案内文が掲げられていました。
哲学者「西田幾多郎」が明治30年9月〜明治32年7月まで
に山口高等学校勤務時代に居住していたと。

八坂神社を通り過ぎ、
香山公園の中には、国宝瑠璃寺五重塔

平坦な道はここで終了。

萩往還 その5 大内御堀→十朋亭維新館

2019年09月29日(日)第2回目です。

広島から山口駅まで車を走らせ、
山口駅から前回の終了地点の大内御堀まで
タクシーで5分ほど戻り
8時55分にスタートしました。

山口駅を通りすぎ商店街を歩きます。
商店街の一角に、
そして商店街を抜けたところに


萩往還の案内がありました。

これから一本道でただひたすら前進あるのみ

ガイドマップに掲載されていた「十朋亭」

料亭かな?と覗きながら通り過ぎようとすると、
係の人から明治維新期の山口の歴史資料館との
説明を受けちょっと立ち寄ってみました。

十朋亭と呼ばれる豪商・萬代家の離れで、
幕末の志士たちが利用したとのことです。



吉田松陰の兄の杉民治が
明治の初めに私塾を開いていた場所




本館には山口市出身の寺内正毅(第18代内閣総理大臣)
の企画展示ありました。

開館1周年目の1人目の入館者だったようで、
クリアファイルと一筆箋の記念品を頂戴しました。








2019年9月27日金曜日

「タクチーキのみを知って・・・」メルマガ第119号

本日メールマガジン第119号を配信しました。

今回も、幕末の長州藩の医者、蘭学者、兵学者大村益次郎(村田蔵六)
を描いた長編小説「花神」からご紹介しています。

◇◆◇◆◆◆◆◆◇◆ < 珠玉の言葉 > ◆◆◆◆◆◇◆◇◆◇◆


「タクチーキのみを知って
  ストラテギーを知らざる者は、ついに国家をあやまつ」
 
      花神(中)長門の国
◆◆◆◆◆◇◆・◆◆◆◆◆◇◆・◆◆◆◆◆◇◆・◆◆◆◆◆◇◆
是非ご一読ください!!    

2019年9月23日月曜日

萩往還 その4 郡境の碑→大内御堀

郡境の碑を越え半時歩き、
ローソンのおにぎりで昼食を済ませ、
山口に向け再出発

その途中、天保2年(1831年)に起こった
大一揆の発端となったことを伝える碑


中国縦貫道の山口ICの付近にあったのが柊獄舎跡、

そこには、大村益次郎医学記念碑
大村益次郎が四境戦争の後、
藩の医学校「好生堂」から依頼され
女囚遺体の腑分けを行なった場所です。

そして、長州五傑石
攘夷活動隆盛のなか、長州は若者を英国に密航留学させます。
「長州ファイブ」と言われる
伊藤博文・井上馨・井上勝・山尾庸三・遠藤勤助ら5人です。
その密航の費用の全額を調達斡旋したのが大村益次郎でした。

脱隊諸士招魂碑

明治政府の兵制のあり方を批判し
旧奇兵隊士が暴動を起こし捕らえら処刑されました。
彼らを供養するための碑

そして柊獄舎跡を後にし、
5キロくらい歩き大内御掘に到着、第1日目終了。

当初、御船倉をスタートし郡境の碑までを
1日目の工程として考えていました。

ヘトヘトになりながら
峠を登りつめ郡境の碑までくるとその後は下り坂。
一気に体が楽になり、
調子に乗ってもう1工程歩いてしまいました。

Iphoneの歩数計で確認すると
御船倉から大内御堀(宮島町バス停)まで
24.4キロ 31,495歩 5時間24分(途中休憩15分程度含む)。

足の付け根、膝、そして腰が痛い、これ以上は無理・・・
一日の徒歩はこれが限界のようです。

今回、自分の限界を確認できたように思います。
1日15キロくらいなら楽勝の感じです。
次回以降はこれを目安に、残りの往還取り組みます。

萩往還 その3 防府天満宮→郡境の碑

野村尼終焉の地の道標から北上し、
防府駅を越え、商店街を通り抜けると
防府天満宮。

防府の市街地を後に、
佐波川の前には山並みが浮かんでくる。
この山を越えるのか・・・

少しづつ登り坂に
振り返って見ると眼下に防府の街が広がる


峠を登りつめると、郡境の碑
「従是北吉敷郡 従是南佐波郡」