2013年5月27日月曜日

それは「綺麗ごと」だ・・・

「お客様に満足いただいて・・・」
「それは『綺麗ごとだ』、利益があがらないと成り立たないではないか」

よく耳にする論議です。

それは「綺麗ごと」だから「汚れごと」をしろ!!
悪事に手を染めて、利益を上げろ!!

というのならまだしも理解できますが、
「利益があがらないと成立しない」というのは
どうも、論議がかみ合っていません。

利益が上がらないと企業は成立しない・・・
確かに、その通りです。

赤字経営が常態となると、資金も枯渇し、
新しい投資もできず、倒産という憂き目を見る可能性は大になります。
論議の余地のない経営の方程式で、
これを否定するのは、「1+1=2ではない」
と否定するのと同じレベルです。
いわば、経営の疑いようのない歴然とした「事実」なのです。

一方、「お客様に満足をいただいて」というのを
「綺麗ごと」と片付けるのは問題です。

この綺麗ごとを積み重ねて、効率あげて、
はじめて企業に収益をもたらすものです。
そして企業の永続を実現するものです。

悪事に手を染めて、一時的に利益を上げたとしても
長続きするものではありません。

その意味では「お客様に・・・」というのは
「綺麗ごと」では、なく企業経営の「本質」と
理解する必要があります。

「綺麗」か「汚い」かということではなく、

利益がないと経営が成り立たないは「真実」
お客様に満足いただくことは:「本質」

という認識をきちんと持つことが必要です。

2013年5月20日月曜日

レベル上がってきてますね

経営のレベルについて色々な角度でとらえることができます。
その一つとして、「経営を考える期間の長さ」があります。

その日ぐらしの一日という期間の長さから始まり、
1週間、1ヶ月、四半期、半年、
1年、3〜5年の中期という期間の長さまで

「考える期間が長いほどレベルが高い」
というのは言うまでもありません。
先を見越す必要性が高くなれば、難しくなってきます。
より多くの情報も必要になってきます。

思いつきを計画に落とすなら期間の長い計画を立案することは簡単です。
しかしながら、その長い計画の裏付けとなる情報が心もとない状態では
決して、経営レベルが上がったことになりません。

情報に裏付けられた内容をもとに、
具体性のある期間の長い計画こそ、
経営のレベルがアップしたことに他なりません。

年間計画に基づき、徹底的に月単位で取り組んできた会社、
懸命な努力で着々と業績が伸びつつ在る中、

「月単位の計画では納まらなくなりました、
 半年単位の計画も取り込まなくては・・・」

とおっしゃる社長。

「経営のレベル上がってきてますね!!」

次のステップに向けて頑張っていきましょう

2013年5月13日月曜日

昨年対比の意味って・・・

「今まで、『昨年対比の実績なんて意味ない』と思っていたんですが・・・」
某社の社長のコメントでした。

「そりゃあ、そうでしょう。
 今までのように焼き畑のようなことをしていては、
 昨年と比べても何の意味もないですよね」

1年が終われば、またゼロから再度出発する。
そして1年が終わり、またゼロから出発。

このような形態では、昨年対比は、
前年より頑張っているか、手を抜いているか
という尺度でしかありません。

それは、それで意味が無い訳ではありません。
あるのは、お尻を叩く強さを加減する尺度程度です。
表面的な、実績のみに着目することによるものです。

「構造的にものをとらえよ・・」
と繰り返しアドバイスしてきました。

実績として現れてくるものの背景の構造にも
着目して考える必要があるということです。

日々の活動は「成果を上げる」ことと「構造を作り」を行っており、
複眼でものを見なければ経営の大局を誤るという意味です。

昨年築きあげた構造を、
今年はどのような構造に変革していくか?
または、強化していくか?

という観点を持てば、昨年の実績は単なる数字の羅列では
意味深いものとなるってくるものです。

「昨年は、悪すぎた・・」とおっしゃるものの
今年は前年比2割増で推移しているとの社長の報告には、
何かをつかまれたように思えました。

引続き、徹底してお願いします。

2013年5月6日月曜日

史跡探訪 近江

そして近江路へ・・・

賤ヶ岳
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が亡くなった後、
明智光秀を討った豊臣秀吉と、
織田家の第一家臣であった柴田勝家との主導権を争った戦場です。

 賤ヶ岳からの琵琶湖は絶景でした。


そして、山頂からの東の方角を見ると、
奥の一部禿げた部分のある山が伊吹山で、関ヶ原で敗戦した石田三成が逃れた。
伊吹山と重なる手前の山が小谷山で、浅井長政の居城。

















賤ヶ岳の麓には、黒田家の発祥の地の碑があります。
















黒田家はこの近江で発祥し、その後、備前福岡(岡山)、姫路、豊前(大分)、筑前(福岡)と移りゆくのでした。黒田官兵衛は、姫路城代の子として生まれました。


小谷城に向かって走っていくと、
浅井長政、お市の方、茶々、初、江、万幅丸(?)像が・・


小谷城跡 


姉川の古戦場跡
元亀元年(1570年)6月28日 
浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康連合軍
が衝突しました。





川の手前が、朝倉軍10千人、浅井8千人
向こう岸に、徳川軍6千人、織田軍23千人が対峙しました。


そして、長浜城。
姉川合戦、小谷城攻めで手柄をあげた秀吉は、
浅井氏の領地の大部分を与えられ、長浜城を築城しました



清洲会議で一旦長浜城は、柴田勝家の甥に譲られるものの
その後攻めとり、賤ヶ岳の戦いでは軍事拠点としました。
後に、山内一豊も城主になっています。

米原市に車を走らせ、観音寺に。
豊臣秀吉と石田三成の出会いの場です。

















秀吉が鷹狩りで、この寺によりお茶を所望しました。
寺の小僧をしていた三成は、
最初は大きめ茶碗にぬるめの茶を
次ぎには1杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を
最後に、小振りの茶碗に熱い茶を
という「三椀の才」を発揮し、秀吉に見込まれたのでした。






















そのお茶の水を汲んだという井戸


佐和山城
姉川の戦いで信長に敗れた浅井氏は佐和山城に逃げ込みます。
8ヶ月の籠城のすえ信長に降伏し、丹羽長秀が治めます。
後に秀吉の時代には、堀秀政、堀尾吉晴、石田三成が城主となりました。


関ヶ原の合戦の論功行賞として、井伊直政が治めますが、
井伊直政の死後、家康に相談し彦根城に移築しました。


入り口には、石田三成の像が

山頂からは、彦根城が眼下できます。

東近江市の五カ荘の近江商人の屋敷跡
町の一角が、昔ながらのたたずまいを残していました。


屋敷に展示されている帳簿類 
複式簿記を使っていたとのこと



















近江商人は「三方よし:売り手よし、買い手よし、世間よし」
という理念のもとに営んでいたそうです。
この理念は、約250年前の1754年に下記のされたものが確認できる
最古の資料のようです。

商売の基本は、今も昔も変わりませんね。


    近江商人は天秤を持って、商いを行っていました。
     
    実際の重さのものを担いでみると、重い、重い・・・

    観音寺城跡
    永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛のする織田信長と、
    近江守護であった六角義賢・義治で行われた戦い。
    支城の箕作城が落城すると観音寺城は無血開場しました。



    そして、安土城跡
    織田信長が天正4年(1576年)に築城し、
    3年後に初めて天守閣を持つ安土城が完成しました。

    今まで、山城にはいくつか登りましたが、
    一部に石垣があるものの、参道から天守までづっと石垣が続いていました。
    信長の、超絶したものを感じたのでした。


    そして、上が天守跡

    信長の本廟





















    天守閣完成から3年目に、本能寺の変が勃発し、一夜のうちに焼失しました。

    最後に、本能寺変を起した、
    明智光秀が築城した坂本城を訪ねました。
    城跡を記す、石碑しか見つけれませんでした。



















    琵琶の周りには、まだまだ多くの史跡があるようです。

    駆け足でしたが、美濃、近江と十分に戦国時代を堪能できました。

    史跡探訪:関ヶ原

    新幹線で、京都から名古屋に向かう途中に
    「関ヶ原」と書かれた看板を目にしたことがありました。

    慶長5年(1600年)秀吉亡き後、
    天下を2分した戦場「関ヶ原」です。

    今まで戦場跡といえば、石碑が立っているだけというのが多く、
    広っぱだけだろう、と期待はしていませんでした。

    豈図らんや、これが行ってみると面白い。
    東軍・西軍の陣地跡が、
    きちんと幟を掲げて分かるようにしてある。
    パンフレットも親切でわかりやす。

    陣地巡りを堪能しました。
    まずは、西軍から石田三成の陣跡


    島左近の陣跡
    小西行長の陣跡

    宇喜多秀家の陣跡

















    島津豊久の陣跡
    平塚為広の陣跡




    そして東軍
    藤堂高虎と京極高知の陣跡
    福島正則の陣跡
    本多忠勝の陣跡
    脇坂安治の陣跡





    そして徳川家康の最初の陣跡


    私の座っている岩は家康が作戦会議の時に、
    テーブル、腰掛けとしてつかったものだそうです。

    そして、慶長5年9月15日、
    午前8時に戦の火ぶたは切られました
    開戦地を示す碑


    そして、小早川の寝返りにより
    東軍が優勢となり、西軍の敗北が見えてきました。
    東軍諸隊は、我こそはと三成の首を狙い、激戦を繰り広げた場所です。


    家康最後の陣跡
    戦がたけなわになると、家康は陣地を移動して陣頭指揮にあたり、
    戦の後には、首実検をおこなったのでした。



    そして帰り際に、武将を発見。
    家族4人で甲冑を着て、関ヶ原巡りの親子。
    父上も母上も甲冑姿でしたが、写真の撮影はご両親は遠慮されました。






















    勇壮な甲冑姿、カッコよかったよ!! ありがとう
    いい家族旅行の思い出になったね。

    史跡探訪:美濃


    前半のGWに美濃・近江と史跡探訪にいってきました。
    道路事情にも恵まれ、堪能できました。
    まずは、岐阜城(稲葉山城)


    山頂に聳えるのを麓から見たことはありましたが、
    ロープウエイで山頂まで。
    司馬さんの「国取り物語」を思い出しながら
    斎藤道三、竹中半兵衛、織田信長を偲びました。
    天守からは美濃平野が一望に見渡せます。
    何かしら天下をとったような気分にも・・・・

    川の対岸の左の小高い丘が、道三が隠居した鷺山城。
    後に斎藤道三と城主の義龍はこの長良川で戦い、
    織田信長の援軍間に合わず、斎藤道三は戦死するのでした。

    お城の公園の中には、織田信長の居館跡。



    そして、山内一豊と千代が婚礼の地がありました。

    どこかで見たことのある像だと思いしや、板垣退助の像

    「板垣退助遭難の地」
    明治15年4月6日に演説を終えた後に、ここで胸を刺され
    「板垣死すとも、自由は死せず」という名言を残した場所のようです。


    お城から、5分くらい歩くと「常在寺」があります。

    斎藤道三の菩提寺で、道三のお墓がひっそりと佇んでいます。

    岐阜から車を西に走らせ、竹中重治(半兵衛)の里垂井町へ

    竹中半兵衛の墓所(禅幢寺)

    戦国時代を代表する軍師、黒田官兵衛とともに
    「両兵衛」「二兵衛」と称せられました。









    半兵衛の陣屋跡には、勇壮な半兵衛の像が建立されていました。

    道三を長良川の戦いで退けた義龍から、龍興に稲葉山(岐阜)城の城主は
    代替わりをしていました。
    半兵衛は龍興に仕えていましたが、酒色に溺れた龍興を諌めるべく
    稲葉山城をわずか一日で奪取しました。

    その後、秀吉に仕え播磨三木城攻めの陣中で、享年36で逝きました。