賤ヶ岳
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が亡くなった後、
明智光秀を討った豊臣秀吉と、
織田家の第一家臣であった柴田勝家との主導権を争った戦場です。
賤ヶ岳からの琵琶湖は絶景でした。
そして、山頂からの東の方角を見ると、
奥の一部禿げた部分のある山が伊吹山で、関ヶ原で敗戦した石田三成が逃れた。
伊吹山と重なる手前の山が小谷山で、浅井長政の居城。
賤ヶ岳の麓には、黒田家の発祥の地の碑があります。
黒田家はこの近江で発祥し、その後、備前福岡(岡山)、姫路、豊前(大分)、筑前(福岡)と移りゆくのでした。黒田官兵衛は、姫路城代の子として生まれました。
小谷城に向かって走っていくと、
浅井長政、お市の方、茶々、初、江、万幅丸(?)像が・・
小谷城跡
姉川の古戦場跡
元亀元年(1570年)6月28日
浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康連合軍
が衝突しました。
川の手前が、朝倉軍10千人、浅井8千人
向こう岸に、徳川軍6千人、織田軍23千人が対峙しました。
そして、長浜城。
姉川合戦、小谷城攻めで手柄をあげた秀吉は、
浅井氏の領地の大部分を与えられ、長浜城を築城しました
清洲会議で一旦長浜城は、柴田勝家の甥に譲られるものの
その後攻めとり、賤ヶ岳の戦いでは軍事拠点としました。
後に、山内一豊も城主になっています。
米原市に車を走らせ、観音寺に。
豊臣秀吉と石田三成の出会いの場です。
秀吉が鷹狩りで、この寺によりお茶を所望しました。
寺の小僧をしていた三成は、
最初は大きめ茶碗にぬるめの茶を
次ぎには1杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を
最後に、小振りの茶碗に熱い茶を
という「三椀の才」を発揮し、秀吉に見込まれたのでした。
そのお茶の水を汲んだという井戸
佐和山城
姉川の戦いで信長に敗れた浅井氏は佐和山城に逃げ込みます。
8ヶ月の籠城のすえ信長に降伏し、丹羽長秀が治めます。
後に秀吉の時代には、堀秀政、堀尾吉晴、石田三成が城主となりました。
関ヶ原の合戦の論功行賞として、井伊直政が治めますが、
井伊直政の死後、家康に相談し彦根城に移築しました。
山頂からは、彦根城が眼下できます。
東近江市の五カ荘の近江商人の屋敷跡
町の一角が、昔ながらのたたずまいを残していました。
屋敷に展示されている帳簿類
複式簿記を使っていたとのこと
近江商人は「三方よし:売り手よし、買い手よし、世間よし」
という理念のもとに営んでいたそうです。
この理念は、約250年前の1754年に下記のされたものが確認できる
最古の資料のようです。
商売の基本は、今も昔も変わりませんね。
近江商人は天秤を持って、商いを行っていました。
実際の重さのものを担いでみると、重い、重い・・・
観音寺城跡
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛のする織田信長と、
近江守護であった六角義賢・義治で行われた戦い。
支城の箕作城が落城すると観音寺城は無血開場しました。
そして、安土城跡
織田信長が天正4年(1576年)に築城し、
3年後に初めて天守閣を持つ安土城が完成しました。
今まで、山城にはいくつか登りましたが、
一部に石垣があるものの、参道から天守までづっと石垣が続いていました。
信長の、超絶したものを感じたのでした。
そして、上が天守跡
天守閣完成から3年目に、本能寺の変が勃発し、一夜のうちに焼失しました。
最後に、本能寺変を起した、
明智光秀が築城した坂本城を訪ねました。
城跡を記す、石碑しか見つけれませんでした。
琵琶の周りには、まだまだ多くの史跡があるようです。
駆け足でしたが、美濃、近江と十分に戦国時代を堪能できました。