2014年5月11日日曜日

史跡探訪:備中高松城

何年振りかで、GWに備中高松城に行ってきました。

織田方の豊臣秀吉は、天正8年(1510年)播磨の三木城、
翌年因幡の鳥取城を兵糧攻めで陥落させました。

そして、毛利軍の最前線の備中7城を次々に落としていくものの、
本城の備中高松城は攻めあぐねていました。

深田や沼沢の中に囲まれた平城で水面との比高が4mしかなく、
人馬の進み難い要害の城でした。
軍師黒田官兵衛は、それを逆手にとり、
「水攻め」を秀吉に献策します。
足守川の水を引き入れ高松城を孤城にしようとします。
















上の写真は、資料館の中にある水攻め様子を描いたジオラマ。
青い影が水で浸水させた部分。湖水面積は188haで東京ドーム40個分。

約2.7㌔の堤防を12日間で築くという大土木工事を行った。
堤防の東端(蛙ヶ鼻)は今も残っている。
上底10m、下底24m、高さ7mの台形の堤だったことがわかる。

秀吉は、毛利方の安国寺恵瓊を招き
城主清水宗治の首と城兵の命を引き換える
という条件で宗治を説かせた。












宗治自刃の地:高松城の東のお寺の一角にある。





















自刃の地から、秀吉・官兵衛が陣取っている石井山を見たところ。
(森の中央の上部に旗の見えるところが陣取っていたところ)














石井山の陣から高松城を見た所。



こんな感じで、46歳の宗治の最期を見ていたのかもしれない。

配布されていた吉備路観光ツアー実行委員会の資料によると、
水攻めの先方による戦いは世界で5ヶ所で、2カ所は海外でオランダと中国。
残り3カ所は国内。うち成功した水攻めは備中高松だけらしい。

ちなみに、国内の2ヶ所は、
天正13年(1585年)秀吉の紀伊太田城攻め
天正18年(1590年)石田三成の埼玉の忍城攻め

初めて訪れたとき、石井山に登りました。
秀吉の陣から高松城を眺めたとき、
土木工事の巨大さに驚き、感動しました。
これがきっかけで、私の史跡巡りが始まったのです。