2014年7月3日木曜日

史跡探訪 函館 幕末

幕末の日米和親条約の箱館開港に伴い、
開設されたのが五稜郭。
そのど真ん中には箱館奉行所置かれていました。


その後、旧幕府軍の土方歳三らは五稜郭を占拠し、
箱館政権を樹立しました。

五稜郭タワーの1Fには、土方歳三そして
箱館政権(蝦夷共和国)の総裁となった榎本武揚の像がありました。






司馬さんの「燃えよ剣」では、土方歳三の漢(おとこ)が描かれています。
現代でもそのまま、イケメン・ハイカラで通る、
スマートな漢だったことを彷彿させる像でした。


そして、榎本武揚。
旧政府軍は降伏しますが、その才能を買われて福沢諭吉も助命に尽力し、
明治政府の逓信大臣、農相大臣、文部大臣等々の要職を歴任します。




















土方は、五稜郭を陥落させた後に松前に進駐し、
松前城(福山城)を落とします。































松前城から見た、本州。

松前城の城壁には、土方が射ったとされる大砲の跡が
3カ所残っていました。
















その後、土方は残兵を追い江差に北上します。

















遠くに見えるのが江差

新政府軍の上陸の時に、
備前岡山藩の宿所とされた横山家
















長州藩宿所とされた関川家、現在病院になっていました。

















榎本は土方を海から援護するために、
軍艦「開陽丸」を向かわせます。








































しかしながら、「開陽丸」は暴風雨に襲われ江差にて座礁します。
防波堤のところくらいで座礁したようです。

















その座礁し、沈没する姿を榎本と土方は見て、
そばにあった松を叩いて嘆いたのでした。



この松が、「土方歳三涙の松」

「開陽丸」が再現していある「開陽丸青年センター」には
榎本武揚のオランダ語(多分?)・・・











「事業は最良の師なり」という意味だそうです。
心せねば・・・・

「開陽丸」は、幕末に外国列強の脅威にさらされた幕府が
国防のために、オランダ発注して建造した戦艦です。
それに伴い留学させたのが榎本武揚。
その中には、西周もいました。

鳥羽伏見の戦の時に、徳川慶喜がこっそり
大坂から江戸に脱出したときにも使われました。

**********************

中国では、この開陽という名は、北斗7星の杓の柄の、
2番目の星につけられた名でもある。
かつては北極星でもあった。(略)
天はこの星を中心に回るように見えるから、
光を闇の中に引っ張り出す力をもった星とも考えられた。
(略)
開陽。日の光をもたらす星、(略)北極を示す星。
フォールリヒテル。夜明け。じつにいい名前だ。

(「武揚伝」より)

***********************

Voor Lichter: 夜明け、導く人、前方を照らす人
という意味が気に入り、私の主宰するリーダー塾は
「開陽塾」と名付けさせてもらっています。

そして土方らは、箱館に凱旋し、最後の戦いに挑みます。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の総攻撃が開始されます。
新撰組を中心に守備していた弁天台場は包囲され孤立します。













当時は長崎の出島のようになっていたようですが、
今は埋めたてられ、公園になっていました。
「新撰組最期の地」の碑が建てられていました。

五稜郭で戦況の見ていた土方は市街地におもむきました。

















五稜郭タワーから函館山の景色。
こんな、感じで土方も戦況を見守っていたのかもしれません。


一本木関門を出て、敢然と斬り込んでいき、銃弾に当たり
この地で最期を迎えたのでした。









函館の駅の近くに関門がありました。

今までいろいろと歴史上の人物の碑やお墓を巡ってきましたが、
こんなに多く献花されたいたのは記憶にありません。

そういえば、土方の出身地の東京のお墓も同様でした。
今でも土方歳三の人気の高さを垣間みたようです。

称名寺には、高田屋嘉兵衛一族の墓の近くに、
土方歳三と新撰組隊士の供養碑がありました。














幕末の騒動の引き金となった
ペリーの足跡も見ることができました。

安政元年(1854年)ペリーは日米和親条約を幕府と締結し、
その直後5隻の艦船で、箱館に入港しました。
その時の松前藩家老との会見所跡。
















有力商人だった山田屋寿兵衛宅だったそうですが、
今は、案内看板一つが立っているだけでした。

元町公園には、黒船来航150年を記念して、
「ペリー提督来航記念碑」が建てられ、
ペリー広場という名前が付けられていました。











そして、市内電車の十字街には坂本龍馬の像が・・・




















龍馬は蝦夷開拓の意志を持っていたものの、
遂げることが出来ませんでした。
その遺志を継いで子孫が北海道に渡り、
開拓に足跡を残したということから、
坂本龍馬記念館もありました。

北海道を代表するお菓子の「六花亭」のデザインは、
本家8代目の山岳画家の坂本直行さんが手がけられたようです。