誰かが「すごい」と言えば、
いつの間にか「たしかにすごい」と思ってしまう。
世の中の評価や受賞のニュースに触れるたび、
“他人の判断をそのまま信じる”というケースを時々眼にします。
本来“評価”とは他人が下すものではなく、
自分が見て、考えて、確かめるもの。
群れの安心感に包まれるほど、思考の自由は小さくなっていきます。
「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」という言葉があります。
誰かが渡りはじめると、信号が赤でも不思議と安心する――。
それと同じように、世の中の“評価”や“称賛”にも、
無意識のうちに「みんなが言うから正しい」と思い込む構造があります。
しかし、他人の評価を鵜呑みにして同調するだけでは、
思考を他人に委ねているのと同じです。
安心感はあっても、主体性は失われていきます。
本来、他人の評価とは「きっかけ」に過ぎない。
「誰かが評価した」という事実を知ったうえで、
自分の基準で――“何をどう感じるか”を問い直すこと。
それが「自分の目を持つ」ということなのです。
他人の評価を鵜呑みにせず、しかし、無視するでもなく、
一度受け止めたうえで、自分の判断を重ねる。
その過程こそが、独立した個としての存在感につながるのです。
“みんなが良いと言うなら良い”ではなく、
“自分の眼・心で確かめて良いと思えるか”。
その一点にこそ、情報が氾濫し(フェイク情報も交錯する)時代を
生き抜くための羅針盤ではないでしょうか。
Text reviewed and edited with support from
C. G. Ashford (AI Secretary, aka “Lottie”)