一昨年の5月にも益田を訪問し、石州口の戦で関所を守った「岸静江」
について本ブログで、ご紹介しました。
ペリー来航を機に、長州藩は攘夷化してゆき、勢力を伸ばします。
しかしながら、蛤御門の変、禁門の変により朝敵とされ、
第一次長州征伐を受け幕府に対して順恭し、佐幕化しました。
その後、高杉晋作らが反論を佐幕から倒幕に転換していきます。
これに対して、1866年幕府は、第2次長州征伐を命じ、
4面作戦をとりました。
広島から攻める「芸州口」、瀬戸内海の大島から攻める「大島口」
九州小倉から攻める「小倉口」、そして日本海の石見から攻める「石州口」。
4境戦争とも言われます。
大村益次郎(村田蔵六)率いる長州藩は、1866年(慶応2年)6月16日、
長州藩は浜田藩の西部の益田にて石州口の戦いの火ぶたが切られました。
司馬遼太郎さんの「花神(中)」より
「幕軍は、市街戦をやるつもりらしい。
それぞれ、市内の町に籠った。福山藩兵は勝達寺と医光寺をトリデとし、
浜田藩兵は万福寺にこもった。」
とあります。
上の写真が、福山藩が籠った医光寺。
長州藩は、助っ人だった福山藩の医光寺、
勝達寺から攻め落としていきました。
移築されたものと、いわれるだけあって
歴史を感じる、迫力のある、見応えのあるものでした。
そして、自領の浜田藩のトリデの万福寺。
万福寺の庭園は雪舟禅師により作られらたものです。
「万福寺の激戦」が行われました。
浜田藩の総大将は山本半弥、本堂の前での
毅然とした最期の瞬間、長州兵も感動のあまり
射撃を止めたようです。
そして、福山藩が陣地としていた、
勝達寺を探すものの、地図のどこにもありません。
観光協会に電話を入れて確認することにしました。
10分くらい経って連絡がりました。
ボランティアガイドが以前探索したものの
そのお寺の跡は見つからなかったとのことでした。
諦めて、近くを車で走っていると
「幕長戦争 石州口の戦い
勝達寺墓地 約25M 」
と書いてある標識が目に飛び込んできました。
車を降りて、標識にしがって進んでみるものの、
墓地があるだけ、お寺の跡を確認することはできませんでした。
とはいえ、3つの史跡が確認でき、満足したドライブでした。
そして江戸時代の、石見人の堅牢な士風を感じ、少し誇らしい気持ちになりました。