2012年5月25日金曜日

歴史探訪 毛利元就〜郡山城

三次に行く途中ちょっと寄り道をしました。
安芸高田市吉田町というのは、広島市内から車で約一時間、
県北にある町で、戦国武将毛利元就を生んだ町です。

毛利元就は戦国の知将と知られ、1497年に吉田町に生まれ、
吉田の一豪族から、西の大内氏、山陰の尼子氏を退け、
中国地方最大の戦国大名となりました。

1本の矢なら折れやすいが、3本の矢なら折れにくい。
と長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に
一致団結するように諭したという「三矢の訓」は、
サッカー球団「サンフレッチェ広島」の
名前のもとになっています。

「三本」=日本語の「サン」「矢」=イタリヤ語の「レッチェ」で、
サンフレッチェの練習場もこの吉田の町にあります。

青光井山尼子陣所跡
左の山が青山、右が光井山で、総称して青光井山と呼ぶそうです。
谷になって住宅地があるところが古戦場跡です。
天文9年(1540)9月、風越山から陣を移した尼子晴久が率いた3万の大軍は
翌年正月ごろまでの5ヶ月あまりにわたり、
毛利元就と対峙し、郡山合戦を繰り広げました。 

郡山城の麓には、毛利元就の墓地があります。

2〜3分歩くと、墓所が見えてきました。

 誰一人いない、ひっそりと静まりかえった雰囲気

墓所が見えてきました。

大きな大木が目に入ってきました。

戦国の大大名だけに、さぞかし大きな墓石が・・
と想像していたところ、
イメージからすると少し小さめでした


毛利元就の墓所の向かい側に石碑がありました。
百万一心
毛利元就が郡山城の工事の際に
人柱の替わりに使用した石碑に書かれていた言葉。
百万一心は「一日 一力 一心」と読め、
「国人が皆で力を合わせれば、何事もなし得る」という意味。
吉田全町をあげて当時の石碑を探したようですが、
発見できず、昭和6年(1931年)に拓本を元に、
模刻したもののようです。

 元就の墓所から本丸まで約800M。山を登っていきました。
息を切らせながらやっと本丸の山頂に。
標高389.7M

山頂の本丸で、吉田全景を見渡せるのを楽しみしていましたが、
一面木々の青葉に遮られて、どの方角も見渡す事ができませんでした。


「 本丸まで530M」付近まで下ったところからの吉田の町です。

吉田には、他にも毛利元就関係の史跡が沢山あるようです。
また機会を見つけて、寄り道を楽しみたいと思います。