私の大好きな司馬さんの小説「菜の花の沖」
江戸時代のビジネスマン高田屋嘉兵衛の出身地です
菜の花が、所々に群生していて綺麗でした。
洲本市五色町役場の隣の「高田屋嘉兵衛翁記念館」
入り口には、司馬さんの色紙が飾られてありました。
パネルには
「人の偉さは計りにくいものですが、
その尺度を英知と良心と勇気ということにしましょうか。
では、江戸時代を通じてだれが一番偉かったでしょうか。
学者、大名、発明家、いろいろといました。
私は高田屋嘉兵衛だろうと思います。
それも二番目が思いつかないくらい偉い人だと思っています」
と1985年5月11日洲本市民会館で講演された一節が紹介されてありました。
阪神大震災までは邸宅の一部があったそうですが、震災で解体されたそうです
そして都志川
都志川の河口の手前が嘉兵衛さんの生まれた「本村」。
対岸が奉公した和田屋のある隣村の「新在家」。
この浜で、嘉兵衛さんは、新在家のマドンナ網元の娘「おふさ」と知り合い、
そして村の若衆と喧嘩したんだった・・・と小説の一場面を思い出しました。
今は表示があるだけになっていました。
橋のたもとにある和菓子屋の「嘉兵衛餅」を一口いただきました。
記念がもらった「嘉兵衛の里めぐり:ウォーキングコース」の地図をたよりに
車を走らせ嘉兵衛さんの史跡をたずねました。
都志港防波堤改築跡
嘉兵衛さんが10年にわたり寄付をして防波堤を改築したそうです。案内版には「コンクリートの岸壁の下にわずかな石組みが見える程度」と
多分このことかな???
八幡神社には、嘉兵衛さんの弟嘉蔵の願文が掲げられてあります。
ロシアに取られた嘉兵衛さんと水主4人、そして松前に幽閉されているゴローニンの無事の帰国。そしてエトロフの漁業の繁栄を願った内容です。
用水確保のために堰を築き本村と大宮の耕地40haの用水を確保し、その後、干ばつのため1932年にダムに改造されたそうです。
高田嘉兵衛公園の中にある「菜の花ホール」。瓦が「高」マークになってる
同じく公園内にある、「日露友好の像」
ゴローニンさんと嘉兵衛さんのツー・ショット
嘉兵衛さんと弟の金兵衛(左)さんの埋葬墓地
「菜の花の沖」という小説を読み高田屋嘉兵衛という人物を知りました。
志を高く持ち、チャレンジ精神にとんだ男。
嘉兵衛さんの史跡を巡り、元気をもらったよう思いました。
そしてこれが、記念のお土産
当時の船の階級は「炊(かしき:見習い)」から始まり、
「水主(かこ:一人前の船員)」、「表(おもて:仕官)」
「知工(ちく:事務長)」、「親司(おやじ:大番頭)」
そしてトップの「船頭」と、普通20年〜30年かかるところを
嘉兵衛さんは3年で船頭になったようです。
「はっぴ」は船頭しか着れなかったようです。
楽しい旅でした。