2010年5月4日火曜日

史跡めぐり 「緒方洪庵誕生地」

一昨日、石州口の戦い史跡を紹介しました。

カメラからパソコンにデータを移している際に、パソコンに取り込んでいない写真がありました。
4月9日に史跡探訪た緒方洪庵誕生の地の写真でした。

不思議なものです、
一昨日の石州口の戦いの長州の司令官が村田蔵六でした。
緒方洪庵、村田蔵六(大村益次郎)は子弟の関係があります。
その二人の関係の写真が私のデジカメから、一緒にでてくるなんて・・・

遅ればせながら、ご紹介させていただきます。

緒方洪庵生誕の地は、岡山市北区足守にあります。
岡山の中心部から小1時間車で走ったところにありました。

これだけの偉人であれば、道路に案内板がと思いきや・・
路の傍らに、小さな案内柱。
普通の速度で走ると必ず見落とすでしょう。




その案内の横の小道を歩いて入っていくと、直ぐに見えてきました。















緒方洪庵(1810~1863)は、江戸時代後期の蘭学者、教育者、文化7年(1810)、
備中足守藩士佐伯惟因の3男としてこの地で生まれた。
15歳の時、大阪蘭方医、中天游の門に入って蘭学をはじめ、
文政3年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。
また、天保7年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長から医学や西洋事情について学んだ。
洪庵29歳の時、医業の傍ら蘭塾「適適斎塾(適塾)」を大阪に開き、福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本佐内らを多くの門弟を育てた。
また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した、そして、嘉永3年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて、足守の除痘館で種痘を施した、近隣を含めてその数500人に及んだと伝えられている。
緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
この生家跡には、子弟面積686平方メートル、中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。


と案内板に説明が・・・・







この下に、臍の緒と遺髪が・・・
残念ながら、資料館のようなものはありませんでした。
洪庵の像と顕彰碑の二つがありました。

洪庵の誕生の地から、歩いて10分くらいのところに、古い町並みが残っています。
その一角に、洪庵の「医戒」がありました。


この石碑には、

緒方洪庵先生扶氏医戒之略

「医の世に生活するのは人の為のみ
己が為にあらずといふことを
其業の本旨とす
安逸を思はず名利を顧みず
唯己れをすてて人を救はんことを願ふべし」

と書かれてありました。

医の世界だけでない、現代のビジネスも同じ

「ビジネスの世に生活するのは人の為のみ
己が為にあらずということを、
其業の本旨とす
安逸を思はず名利を顧みず
唯己をすてて人を救はんことを願うべし」

ですよね!!

医は仁術。算術ではない・・・といわれます。
しかしながら、算術を無視した公営の病院が大きな赤字を抱え、
なり行かなくなっています。

医も我々のビジネスも同じ、
仁術も、算術も必要。

問題はその順番。

仁術の次が算術。

くれぐれも、その逆の順番ではありませんから・・・