2010年5月3日月曜日

史跡めぐり 「石州口」

島根県益田市。

幕末に第2次長州征討が行われ、その一つの戦いの場として石州口の戦いがあった。
石州とは、島根県西部のこと。

長州藩は、津和野藩は幕府の傘下にあれども、交戦せず長州を進軍させる。
そして、浜田藩の扇原関門に・・・






(岸静江国治の碑)


「元治元年1864年江戸幕府と長州藩が逼迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたといわれる。
慶應2年(1866年)6月16日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約1千5百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに先頭が開始された。俗に「石州口の戦い」と言われ、大島口(周防大島)、芸州口(安芸)、小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第2次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌17費には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。」


益田市教育委員会の説明より~


これが、ちょうど藩境の峠。 長州軍側から・・・ 左右に2本の石柱が 

左側の石柱には「従是南津和野藩」と         

右側の石柱「従是北浜田藩」と書かれている

そして長州藩は関門を突破して、この道を下って益田市中に進撃していった。

上の写真の左は、浜田藩側から峠を上っていくところ、

そしてこちらは、峠のトップのとこから津和野藩側を見たところ。


帰って確認してみると、この場面、司馬遼太郎 「花神(中)」 石州口 のところに書かれてありました。
医光寺、勝達寺、万福寺、大麻山・・・等もでてきます。

また、益田に寄ったときには、写真撮ってご紹介します。