今年1月に広島銀行さん主催の講演会をさせていただきました。
その時に、某社のサービス業の会長さんが参加されており、
「是非、当社の幹部へ・・・」
ということで、本日幹部社員30余人の方に講演をさせていただきました。
3時間の長丁場でしたが、皆さん最後まで熱心に聞いていただけました。
その講演の冒頭に創業者である会長か挨拶なさいました。
印象深い挨拶でした。
「商売の心は変わらない。 『ええ仕事してくれて有難う。今度も頼むよ』ですよ・・・」
かっこつけの挨拶でなく、私に伝わるものがありました。感動しました。
この事業に対する思いが、従業員1000人を超える企業に発展された原動力の一つなのかもしれない・・
と思いました。
講演の方も、ご期待に添えたようで・・・、正直「ほっ」としています。
お忙しい中、わざわざ事前の打ち合わせの作ってくださった社長。
会場の準備やら、手配、出迎え等々、行き届いた環境の中で準備をしてくださった総務部長。
本当に有難うございました。
2010年5月13日木曜日
2010年5月4日火曜日
史跡めぐり 「緒方洪庵誕生地」
一昨日、石州口の戦い史跡を紹介しました。
カメラからパソコンにデータを移している際に、パソコンに取り込んでいない写真がありました。
4月9日に史跡探訪た緒方洪庵誕生の地の写真でした。
不思議なものです、
一昨日の石州口の戦いの長州の司令官が村田蔵六でした。
緒方洪庵、村田蔵六(大村益次郎)は子弟の関係があります。
その二人の関係の写真が私のデジカメから、一緒にでてくるなんて・・・
遅ればせながら、ご紹介させていただきます。
緒方洪庵生誕の地は、岡山市北区足守にあります。
岡山の中心部から小1時間車で走ったところにありました。

これだけの偉人であれば、道路に案内板がと思いきや・・
路の傍らに、小さな案内柱。
普通の速度で走ると必ず見落とすでしょう。
その案内の横の小道を歩いて入っていくと、直ぐに見えてきました。




緒方洪庵(1810~1863)は、江戸時代後期の蘭学者、教育者、文化7年(1810)、
備中足守藩士佐伯惟因の3男としてこの地で生まれた。
15歳の時、大阪蘭方医、中天游の門に入って蘭学をはじめ、
文政3年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。
また、天保7年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長から医学や西洋事情について学んだ。
洪庵29歳の時、医業の傍ら蘭塾「適適斎塾(適塾)」を大阪に開き、福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本佐内らを多くの門弟を育てた。
また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した、そして、嘉永3年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて、足守の除痘館で種痘を施した、近隣を含めてその数500人に及んだと伝えられている。
緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
この生家跡には、子弟面積686平方メートル、中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。
と案内板に説明が・・・・


この下に、臍の緒と遺髪が・・・

カメラからパソコンにデータを移している際に、パソコンに取り込んでいない写真がありました。
4月9日に史跡探訪た緒方洪庵誕生の地の写真でした。
不思議なものです、
一昨日の石州口の戦いの長州の司令官が村田蔵六でした。
緒方洪庵、村田蔵六(大村益次郎)は子弟の関係があります。
その二人の関係の写真が私のデジカメから、一緒にでてくるなんて・・・
遅ればせながら、ご紹介させていただきます。
緒方洪庵生誕の地は、岡山市北区足守にあります。
岡山の中心部から小1時間車で走ったところにありました。
これだけの偉人であれば、道路に案内板がと思いきや・・
路の傍らに、小さな案内柱。
普通の速度で走ると必ず見落とすでしょう。
その案内の横の小道を歩いて入っていくと、直ぐに見えてきました。
緒方洪庵(1810~1863)は、江戸時代後期の蘭学者、教育者、文化7年(1810)、
備中足守藩士佐伯惟因の3男としてこの地で生まれた。
15歳の時、大阪蘭方医、中天游の門に入って蘭学をはじめ、
文政3年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。
また、天保7年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長から医学や西洋事情について学んだ。
洪庵29歳の時、医業の傍ら蘭塾「適適斎塾(適塾)」を大阪に開き、福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本佐内らを多くの門弟を育てた。
また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した、そして、嘉永3年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて、足守の除痘館で種痘を施した、近隣を含めてその数500人に及んだと伝えられている。
緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
この生家跡には、子弟面積686平方メートル、中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。
と案内板に説明が・・・・
残念ながら、資料館のようなものはありませんでした。
洪庵の像と顕彰碑の二つがありました。
洪庵の誕生の地から、歩いて10分くらいのところに、古い町並みが残っています。
その一角に、洪庵の「医戒」がありました。
この石碑には、
緒方洪庵先生扶氏医戒之略
「医の世に生活するのは人の為のみ
己が為にあらずといふことを
其業の本旨とす
安逸を思はず名利を顧みず
唯己れをすてて人を救はんことを願ふべし」
と書かれてありました。
医の世界だけでない、現代のビジネスも同じ
「ビジネスの世に生活するのは人の為のみ
己が為にあらずということを、
其業の本旨とす
安逸を思はず名利を顧みず
唯己をすてて人を救はんことを願うべし」
ですよね!!
医は仁術。算術ではない・・・といわれます。
しかしながら、算術を無視した公営の病院が大きな赤字を抱え、
なり行かなくなっています。
医も我々のビジネスも同じ、
仁術も、算術も必要。
問題はその順番。
仁術の次が算術。
くれぐれも、その逆の順番ではありませんから・・・
2010年5月3日月曜日
史跡めぐり 「石州口」
島根県益田市。
幕末に第2次長州征討が行われ、その一つの戦いの場として石州口の戦いがあった。
石州とは、島根県西部のこと。
長州藩は、津和野藩は幕府の傘下にあれども、交戦せず長州を進軍させる。
そして、浜田藩の扇原関門に・・・


(岸静江国治の碑)
「元治元年1864年江戸幕府と長州藩が逼迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたといわれる。
慶應2年(1866年)6月16日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約1千5百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに先頭が開始された。俗に「石州口の戦い」と言われ、大島口(周防大島)、芸州口(安芸)、小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第2次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌17費には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。」
益田市教育委員会の説明より~
これが、ちょうど藩境の峠。 長州軍側から・・・ 左右に2本の石柱が
左側の石柱には「従是南津和野藩」と
右側の石柱「従是北浜田藩」と書かれている
そして長州藩は関門を突破して、この道を下って益田市中に進撃していった。
上の写真の左は、浜田藩側から峠を上っていくところ、
そしてこちらは、峠のトップのとこから津和野藩側を見たところ。
帰って確認してみると、この場面、司馬遼太郎 「花神(中)」 石州口 のところに書かれてありました。
医光寺、勝達寺、万福寺、大麻山・・・等もでてきます。
また、益田に寄ったときには、写真撮ってご紹介します。
幕末に第2次長州征討が行われ、その一つの戦いの場として石州口の戦いがあった。
石州とは、島根県西部のこと。
長州藩は、津和野藩は幕府の傘下にあれども、交戦せず長州を進軍させる。
そして、浜田藩の扇原関門に・・・
(岸静江国治の碑)
「元治元年1864年江戸幕府と長州藩が逼迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられたといわれる。
慶應2年(1866年)6月16日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約1千5百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに先頭が開始された。俗に「石州口の戦い」と言われ、大島口(周防大島)、芸州口(安芸)、小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第2次長州戦争の口火となった。
圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ、関門を通過した長州軍は翌17費には医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させた。」
益田市教育委員会の説明より~
帰って確認してみると、この場面、司馬遼太郎 「花神(中)」 石州口 のところに書かれてありました。
医光寺、勝達寺、万福寺、大麻山・・・等もでてきます。
また、益田に寄ったときには、写真撮ってご紹介します。
2010年4月24日土曜日
~ 構造 ~
「構造」について考えてみたい。
高額商品の販売
・多くの高額所得所のお客様をもっているのと、
・中間層の顧客を持っているのでは、
どちらが売りやすい?
長距離ドライブ
・4000ccのエンジンの車と、
・ 660ccのエンジンの車では
どちらが高速走行がしやすい?
コスト削減
・取引業者を多くもっている会社と、
・取引業者が1社しかない会社では
どちらが、安いコストで仕入れる可能性が高い?
高額商品の販売は、高所得のお客様をもっているという構造の方だろうし、
長距離ドライブは、4000ccのエンジンの構造をもっている車だろう、
そして、コスト削減なら、取引業者を多くもっているという構造の会社だろう。
いずれも、求めている結果を出しやすい構造、
というものがあることを認識する必要がある。
確かに、一般ピープルでも高額商品を購入する人はいる。
660ccの軽自動車でも、時速100キロで5時間以上走ることができる・・・という人もいる。
しかしながら、その発生確率は低い、または、無理な状況を強いている。
すなわち、確率論的な考え方がない。全体観がないといわざるを得ない。
顧客管理という名のもとに、
顧客データの蓄積をしている会社は多くある。
しかしながら、その顧客データをもとに定期的なDM、資料送付程度にしか
活用されておらず、結果に一喜一憂しているというのがその殆どである。
顧客構造という概念を持つことにより、
「業績の上がりやすい顧客構造とは何か?」
というテーマに取り組むことができ、
引いては、求めている成果が出やすい状況を
作り出すことができるのである。
自社の顧客構造、販売構造、調達構造、生産構造・・・等々とは何か?を考え
そしてそれらを、戦略戦略的に見直すことも重要な経営幹部の役割なのである。
高額商品の販売
・多くの高額所得所のお客様をもっているのと、
・中間層の顧客を持っているのでは、
どちらが売りやすい?
長距離ドライブ
・4000ccのエンジンの車と、
・ 660ccのエンジンの車では
どちらが高速走行がしやすい?
コスト削減
・取引業者を多くもっている会社と、
・取引業者が1社しかない会社では
どちらが、安いコストで仕入れる可能性が高い?
高額商品の販売は、高所得のお客様をもっているという構造の方だろうし、
長距離ドライブは、4000ccのエンジンの構造をもっている車だろう、
そして、コスト削減なら、取引業者を多くもっているという構造の会社だろう。
いずれも、求めている結果を出しやすい構造、
というものがあることを認識する必要がある。
確かに、一般ピープルでも高額商品を購入する人はいる。
660ccの軽自動車でも、時速100キロで5時間以上走ることができる・・・という人もいる。
しかしながら、その発生確率は低い、または、無理な状況を強いている。
すなわち、確率論的な考え方がない。全体観がないといわざるを得ない。
顧客管理という名のもとに、
顧客データの蓄積をしている会社は多くある。
しかしながら、その顧客データをもとに定期的なDM、資料送付程度にしか
活用されておらず、結果に一喜一憂しているというのがその殆どである。
顧客構造という概念を持つことにより、
「業績の上がりやすい顧客構造とは何か?」
というテーマに取り組むことができ、
引いては、求めている成果が出やすい状況を
作り出すことができるのである。
自社の顧客構造、販売構造、調達構造、生産構造・・・等々とは何か?を考え
そしてそれらを、戦略戦略的に見直すことも重要な経営幹部の役割なのである。
2010年4月14日水曜日
「イメージ」
昨日ある社長に、創業からの話をいろいろと伺った。
今年が創業35年になるとのこと。
創業の時の思い、そして現在までの変遷。
その間、6回位の事業のステップがあり、大きな決断があった。
自社の得意分野と新しい事業を上手く連携させて、
いわゆる自社のコアコンピテンスを軸に展開されていた。
「いくつかあったステップの中で、判断に悩んだことは無かったのですか?」
という質問に対して、その回答はあっさりと
「無かった。大変な時もあったけど、その時は大変と思わなかった」
とのこと。
「へえ~、無かったんですか~」と私。
「いつも、常に次の、そしてその次のステージのことを常に考えとったからな・・・」
なるほど・・・・
次のステージのデザインが明確なら、
岐路において「どうしようか?」というよりも、むしろ
自分のイメージに入っているか否か、
イメージに近づくために、必要なものか否か
と比較的容易に峻別できただろうと理解できた。
よりゴールのイメージがはっきりしていればいるほど、
必要なものか、そうでないのか?
大切なものか、そうでないのか?
やるべきなのか、やらざるべきなのか?
リスクを採るべきなのか、そうでないのか?等々
が明確になる。
ビジョンの重要性・必要性を再認識させらたのであった。
今年が創業35年になるとのこと。
創業の時の思い、そして現在までの変遷。
その間、6回位の事業のステップがあり、大きな決断があった。
自社の得意分野と新しい事業を上手く連携させて、
いわゆる自社のコアコンピテンスを軸に展開されていた。
「いくつかあったステップの中で、判断に悩んだことは無かったのですか?」
という質問に対して、その回答はあっさりと
「無かった。大変な時もあったけど、その時は大変と思わなかった」
とのこと。
「へえ~、無かったんですか~」と私。
「いつも、常に次の、そしてその次のステージのことを常に考えとったからな・・・」
なるほど・・・・
次のステージのデザインが明確なら、
岐路において「どうしようか?」というよりも、むしろ
自分のイメージに入っているか否か、
イメージに近づくために、必要なものか否か
と比較的容易に峻別できただろうと理解できた。
よりゴールのイメージがはっきりしていればいるほど、
必要なものか、そうでないのか?
大切なものか、そうでないのか?
やるべきなのか、やらざるべきなのか?
リスクを採るべきなのか、そうでないのか?等々
が明確になる。
ビジョンの重要性・必要性を再認識させらたのであった。
2010年4月13日火曜日
「実践」
4月10日に発行したメルマガ。「胡蝶の夢」から松本良順のことを書きました。
某社の専務さんからメールを頂戴しました。
メルマガの反応をお送りいただき、本当に嬉しく思います。
また、編集後記で、「もし高校野球の女子マネジャーがドラッカーを読んだら」
のことも書きました。この本も読まれたとのことも記されてありました。
編集後記の最後のところまで読んでいただいている・・・・・
感謝、感謝です。
その専務さんのメールの中で、「実践の難しさ」についてコメントがありました。
その難しさ痛いほどわかります。
自分のことでも、思っていることを実践するのが難しいのに、
ましてや、実践するのは自分だけでなく、組織。
でも、「難しい・・・」と言いながらでも取り組んでいらっしゃることが立派。
あることを思い出した。
昔、某社の(当時)社長にある詩を送った。
創業社長で、一人で引っ張ってこられていた。
世代交代を考えないと・・・という時期だった。
しかしながら幹部社員が育っていない・・・
その詩は「その一言が」というタイトルで、
社員の話を、最後まで聞いてやってください、
ということを伝えたくて送ったものだった。
その社長は、その詩を受け入れて下さった。
そして私に会う度に、「上手い具合にできんで・・・、難しいことを言うの~」
といつも笑顔でおっしゃった。
「ということは、少しは実践なさっていらっしゃる、ということですね。有難うございます」
といつも返していた。
それから2年くらい経過した。
その会社は変わった。幹部社員も変わった。
もちろんいい方向に。
「難しいで~」と言い続けながらでも、諦めずに少しづつでも実践。
これが大切!!
某社の専務さんからメールを頂戴しました。
メルマガの反応をお送りいただき、本当に嬉しく思います。
また、編集後記で、「もし高校野球の女子マネジャーがドラッカーを読んだら」
のことも書きました。この本も読まれたとのことも記されてありました。
編集後記の最後のところまで読んでいただいている・・・・・
感謝、感謝です。
その専務さんのメールの中で、「実践の難しさ」についてコメントがありました。
その難しさ痛いほどわかります。
自分のことでも、思っていることを実践するのが難しいのに、
ましてや、実践するのは自分だけでなく、組織。
でも、「難しい・・・」と言いながらでも取り組んでいらっしゃることが立派。
あることを思い出した。
昔、某社の(当時)社長にある詩を送った。
創業社長で、一人で引っ張ってこられていた。
世代交代を考えないと・・・という時期だった。
しかしながら幹部社員が育っていない・・・
その詩は「その一言が」というタイトルで、
社員の話を、最後まで聞いてやってください、
ということを伝えたくて送ったものだった。
その社長は、その詩を受け入れて下さった。
そして私に会う度に、「上手い具合にできんで・・・、難しいことを言うの~」
といつも笑顔でおっしゃった。
「ということは、少しは実践なさっていらっしゃる、ということですね。有難うございます」
といつも返していた。
それから2年くらい経過した。
その会社は変わった。幹部社員も変わった。
もちろんいい方向に。
「難しいで~」と言い続けながらでも、諦めずに少しづつでも実践。
これが大切!!
2010年4月7日水曜日
「本音」と「建前」
初期の新入社員も終わり、早い会社では配属がされたようである。
問題は、これから・・・。
新人教育で教えられたことと、先輩・上司の行動や言動が違う・・・
素直な新人は、そのギャップを疑問に思い、問うかもしれない
「本音と建前だよ!!」
と答える先輩・上司を許してはならない。
「本音」と「建前」なんてない。
全て本音でなければならない。
あえて「本音・建前」という言葉を使うなら、
「本音」は現実であり、「建前」は理想であり、目標であり、あるべき姿なのである。
「本音」と「建前」という言葉を使う限り、発展・改善・成長を自ら諦めているのと同じである。
新人の新人研修で習ったことと、ギャップがあるのなら
ギャップを改善し、一歩でも近づくように努力を惜しんではならない。
新人の感じるギャップを、糧にするか否かは、
その会社の成長力を測る物差しの一つともいえる。
問題は、これから・・・。
新人教育で教えられたことと、先輩・上司の行動や言動が違う・・・
素直な新人は、そのギャップを疑問に思い、問うかもしれない
「本音と建前だよ!!」
と答える先輩・上司を許してはならない。
「本音」と「建前」なんてない。
全て本音でなければならない。
あえて「本音・建前」という言葉を使うなら、
「本音」は現実であり、「建前」は理想であり、目標であり、あるべき姿なのである。
「本音」と「建前」という言葉を使う限り、発展・改善・成長を自ら諦めているのと同じである。
新人の新人研修で習ったことと、ギャップがあるのなら
ギャップを改善し、一歩でも近づくように努力を惜しんではならない。
新人の感じるギャップを、糧にするか否かは、
その会社の成長力を測る物差しの一つともいえる。
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