1637年に勃発した天草の乱
「切支丹弾圧によって一揆がおこったという見方は、
島原同様、成立しない。(省略)
天草諸島が二万石の米もとれないのに、
表高四万二千石というふうに課税評価が固定していたために、
その表高によって農民が苛斂誅求されつづけていた」
~ 街道をゆく 島原・天草の諸道 (富岡城址へ) ~
宗教弾圧による切支丹の反乱かとばかり思っていましたが、
重税に苦しむ一揆だったんですね。
天草の本渡
祇園神社の前にある橋(1832年架設)が「祇園橋」
標柱には「天草の乱激戦地之跡」と。
天草の乱で、天草四郎率いる一揆勢と
富岡城番代三宅藤兵衛
との唐軍が激突した場所。
両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いた、
と説明されていました。
明徳寺
島原の乱の後代官鈴木重成によって建立され曹洞宗の寺。
地下に潜っているキリシタン信仰を、
仏教に転向させるために建立されたようです。
「石段のところに「十」といった形の十字架が
刻まれていることに気づいた。
(省略)自然に十字架を踏みにじりつつ降りていたわけであり、
むろんそれを意図して、江戸時代の創建早々か、
それ以降に刻まれたものにちがいない。
切支丹禁制時代の凄味といっていい」
~ 街道をゆく 島原・天草の諸道 (延慶寺の梅) ~
司馬さんの記している「十」を探したのですが・・・
多分これ???
そして階段降りて、延慶寺へ
延慶寺
兜梅(熊本県指定天然記念物)
樹齢500年の梅、11メーターにも広がっています。
兜梅の名前は、
天草の合戦で、天草側の木山弾正の妻が、
騎馬武者姿で奮戦する際に、兜の綴がこの梅にからまり、
身動きできず討たれたことに由来するそうです。
本渡から北岸の海づたいに車を走らせ・・・
天草から島原が霞んで見ることができました
PM2.5の影響だそうです
九州の天気予報では、PM2.5の
コーナーがあるんですね。
美しい景観への影響度「大」です
1601年に肥前唐津藩の飛地領として寺沢広高によって築城されました。
天草の乱では、一揆軍から攻撃を受け籠城しました。
城に登る途中に銅像が、天草代官「鈴木重成」像
天草・島原の乱の後、
天領となり初代代官として派遣されたのが鈴木重成。
乱の元凶となった過大な石高を半減するように幕府に要請しますが、
受け入れられず、抗議して江戸の駿河台の屋敷で自刃しました。
その後、受け入れられ半減されます。
城からの眺望
そして、二の丸に「天草回天碑」として4体の銅像が
天草の恩人として、鈴木重成(後ろ左)鈴木正三(後ろ右)
鈴木重成は前述の通り。
鈴木正三は、鈴木重成の兄。
家督を弟に譲り出家し、弟の要望で天草に赴き
「万民徳用」の教えを島民に説いていきました。
この兄弟二人の遺徳を偲んで鈴木神社が各地にあるそうです。
そして日本の恩人として勝海舟(前左)と頼山陽(前右)
勝海舟は、長崎海軍伝習所時代に訓練で富岡に来航、
頼山陽は、西遊時に、富岡の儒者を訪ね、天草灘の展望を吟じた、
という関連です。
アダム荒川の記念広場
切支丹禁令で神父が追放された後、教会を守っていたのがアダム荒川。
信仰を捨てず、斬首の刑に処せられました。
ローマ法王によって、正式に「福者」として承認された一人。
富岡城から、車ですこし南に走ると大江教会。
明治に入り、禁教令が解かれると教会が建てれていきました。
明治16年(1833年)に建てられ、
現在のものは昭和8年(1933年)のもののようです。
さらに、南下していくと、
来年にも世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
として登録される崎津地区。
キリスト教の繁栄と、激しい弾圧の250年の潜伏、
そして奇跡の復活という世界でも類のない歴史
として申請中のようです。
現地のガイドさんは、
「隠れ切支丹」ではなく「潜伏切支丹」と
さらに、
「踏み絵」を踏むのが「絵踏み」と
きちんと区別していました。
小さな漁村のシンボルとなっているのが崎津教会。
昭和9年に、絵踏みの行われた庄屋跡に建てられ、
絵踏みのが行われた場所に祭壇が置かれています。
1614年に禁教令が出されます。
1805年に、クリスマスに牛肉や魚肉を祭壇に
備えていることがきっかけで
「天草崩れ」といわれる5,205人が
キリシタンとして摘発された事件が起きます。
その際に、異仏の取り調べが行なわれたのが崎津諏訪神社です。
崎津の町を歩いていたら見かけたのが
つい、うなづいてしまいました。
東シナ海の夕焼け